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5461 今城城近くに、長宗我部氏の喫茶店なりや? maru阿弥 03/01 17:10
今城氏の居城の近くに、長宗我部氏と思われる喫茶店を発見。
どうやら、秀吉侵攻のおり逃げ遅れた御仁ではなかろうかと、推測。
なんでも、日浦に落ち延びた長宗我部勢は、姓をながいと変え
長井と永井がおられるよし。
今日発見のながいさんは、永井さんの方でありましたが、
なかなかに、精悍な顔つき、
長宗我部勢のしんがりを務められた
精鋭部隊の御子孫なりや?
5463 珈琲美味いよ 今城 03/02 14:53
落人が落とす美味いコーヒー、是非どうぞ。
5464 長宗我部氏 mino阿弥 03/02 15:59
長宗我部元親の母は、美濃斎藤氏とする説がある。
元親の妻も石谷兵部大輔の娘とされるが、実は斎藤利三の異母妹。
石谷兵部大輔の養子として斎藤利三の兄弟が石谷兵部少輔。
石谷兵部少輔の娘が長宗我部元親の子信親の室。
史実であれば、長宗我部国親、元親、信親と長宗我部氏三代にわたり美濃斎藤氏が関わっていることになる。
国親は、一条房家を頼り、房家のもとで成長した。
一条房家の祖父一条兼良の娘は、美濃守護代斎藤利国の室(利貞尼・異説あり)となっている。
斎藤利国の室利貞尼は、京都妙心寺中興の人。
斎藤利三の娘お福(春日局)は、父斎藤利三が信長を討ち刑死したのち、難を逃れて一時、土佐に居たという説あり。
長宗我部氏は一条氏を介して、深く美濃斉藤氏と関わりがあったと考えられる。
また斎藤氏と関わりがあったということは、稲葉氏とも関わりがあったと考えられる。
「美濃林太平記」の著者美濃林通家に伝わる長宗我部氏伝承も荒唐無稽なものばかりではないように思われる。
想像以上に長宗我部氏と美濃とは関わりがあったのではないか?
5467 土佐の西南の里では? 遊行笑人 03/05 15:52
道後の湯の里では長宗我部氏が・・・長井・永井氏とは!・・・土佐の宿毛では細川氏が『細』を『さい』と読み崩して『佐井』とウジナを変えて後を継ぐと!・・町史に残されている。
土佐の歴史では、伊予之道後攻めの際(土佐備後守十市細川宗兆の長男頼重を戦死させている)をはじめ、尚、蛇足では有るが宗兆は其の前にも2男を池城にの越して四国を転戦・・讃岐之藤目城攻めでは、細川宗兆の子・弥四郎も戦死させているのも誠に、笑人に取っては、辛い縁を偲ばれる。河野・細川・長宗我部・美濃の各氏との並々為らぬ縁に因するも摩訶不思議也。
5465 松山城三の丸跡 小普請所の石垣確認 今城 03/02 22:28
今朝の愛媛新聞に、『松山市と市教委は1日、同市堀之内の松山城三之丸跡6次調査(競輪場跡地)で、土木工事を担当する藩政施設「小普請所」の石垣や、二之丸高石垣下の堀の一部を確認したと発表した。周辺の道路遺構なども合わせ、文久年間(1861―64年)の絵図「亀廓城秘図」に記された土地区画がほぼ正確であることが明らかになったとしている。』と報じられています。絵図が正確であることが確認されたとなると、今後の調査に大いに役立つでしょう。
現地説明会は4日午後一時半から。
少雨決行。
問い合わせは市公園緑地課。電話:089-948-9756
5466 1581年、豊後と伊予と安土をつなぐヴアリニャーニ maru阿弥 03/03 23:27
1581年頃、安土にてヴアリニャーニは信長の歓待を受け
その後、豊後から来ていた、大友宗麟のお気に入り・田原親虎(ドン・シモン)にも会い、
彼を伊予の妻の所へ、急ぎ帰らせる。道後キリシタンの中心にするためであろう。
同じく、1581年ヴアリニャーニは、豊後の大友宗麟へ向う途中、宇和島沖の島にて一条兼定(ドン・パウロ)に会う。
同じく、1581年には反キリシタンであった毛利氏が、信長なき後の秀吉に加勢。
親秀吉派となり、反キリシタンから親キリシタンへと政策を転換か。
道後もその変化の影響を受けたか、大友宗麟のお気に入り・田原親虎(ドン・シモン)がやってくる。
1581年は、信長が倒れるも秀吉が受け継ぎ、豊後と伊予と安土をつなぐ親キリシタンネットワークが強化された年であろう。
5468 山野井家について yama_no1p 03/05 17:35
はじめまして、現在は広島市に住んでいます、yama_no1pといいます。
ずいぶん前の書込みを拝見させていただき、投稿させていただいています。
こちらのメンバーの方で能美の山野井について知っておられる方がいらっしゃれば、
いろいろと教えていただければと思います。
私は、山野井の本家からは外れますが、祖父が墓石によると67代とあり、文化・文政時代の墓石も点在しています。
これから、私が生きていく上において、知っておきたい事が沢山あるのです。
知る限りでは、村上家とかなり濃い間柄ではないかと思います。
親戚なども、江戸の頃、それ以前の話はほとんど知りません。
もし、よろしければ皆様のお力をお貸しいただけたら幸いです。
よろしくお願いします。
5469 Re:5468 歓迎します 今城 03/05 20:39
yama_no1pさん、談話室ゆづきにようこそ。歓迎します。
以前、山野井氏が話題になったことがありました。私自身
は山野井氏について知識がありませんので、詳しい方にお
任せします。皆さん、どんなことでも宜しいと思いますの
で、どしどし情報をお寄せ下さい。よろしく。
5470 ありがとうございます。 yama_no1p 03/06 16:33
先日、大柿町40周年記念で発行された『大柿町誌』が出てきまして、そこにいろいろと書いてあり、来島村上家、伊予河野家との交渉がかなり行われていたようです。
もう少し、この資料について調べてみます。
ここに出てくる【『能美島志』道澤蔵本】 を写本されたと思われる、道澤とは、恐らく、私の5代前の山野井道澤と思われます。
皆様、ご存知のことがありましたらご指導くださいますよう、よろしくお願いします。
※私は歴史まったくの無知でして、これから調べていこうと思っています。
5471 ??? 呑舟 03/06 23:21
山野井さんお出ましありがとう
ただ、趣旨がよくわかりませんので、順序だててお話頂けませんか?
何が分かっていて何が分からず、何が知りたいのでしょうか?
能美は能美島のことですか?
5472 それもそうです・・・ yama_no1p 03/07 18:27
呑舟さま、ありがとうございます。
たしかに、これでは何が分かっていて何が分からず、
何が知りのか解かりませんね・・・
事実、そこだと思います。
解かってる事は、親の言う事(これも、子供の頃の話で曖昧)と、
『大柿町誌』に書かれている事と、その他インターネットで調べた事です。
この『大柿町誌』によると、西暦808年に、建立された宝持寺を
1555年に、山野井の菩提所として再建したとか
1365年に伊予の河野通堯氏が九州に逃れる?際、
能美の山野井源兵衛厚くこれ(徒属5百余騎とともに)を遇す。
とかその他多数あります
毛利、村上、陶、大内、足利、河野家などと、
実際にどのような関係で、行き来をしていたか、
またこの文章の内容では判別できない年間などが知りたいです。
※これに出てくる参考資料として(山野井文書)というのが
九州大学に保存されているようです。
手元に『把握している』ある、先祖の名前は、5代前の山野井道澤までです。
祖父は、村上家に嫁に行った3男から山野井に養子に来ています。
墓石は、かなり年月がたっていますので、判別できない物がほとんどです
あまり、達筆ではありませんが、ご理解いただけますでしょうか。
よろしくお願いします。
※能美=能美島(現:江田島市)です
山野井は、以前能美氏を名乗っていたとか、能美城の山野井氏だとか、不明な点も多いです。
5473 能美 山野井家のこと 呑舟 03/07 19:57
確かに山野井家は能美の名門と思います。
山野井文書は九州大学に明治22年に筆写され保管されています。
原本蔵者は安芸国佐伯郡大柿村 山野井順平氏になっていますが故人でしょう。が、子孫の方がいらしゃるのではないでしょうか?
中味は大内政弘感状以下28通。塩飽島共有本、豊臣秀吉朱印状 塩飽検地の事などと
なっています。
私が調べています予州久万の大野家の系図に「天正16年(1588)直政領地 芸州
能美島庄屋 山中源兵衛宅にて直房誕生」とあり この山中源兵衛は山野井源兵衛の
転写間違いと私は思っています。
ここでの大野直政は村上武吉の娘婿で能島村上家を代表し来島村上と姫路に秀吉の味方
引き入れの談判に行き断固として誘いを断り、能島村上を毛利家に付けた人物です。
来島村上は逆に秀吉についたため大分で大名に取り立てられました。
山野井源兵衛宅で生まれた大野直房は慶長5年(1600)13歳で村上元吉らと三津が浜
の戦いに親子ともに出陣し元吉を失っています。
この当時は能美島は毛利から村上に与えられそれを村上家家老大野直政が拝領していた
と思われます。
もっとも関が原の戦いで毛利勢がまけて1600年には退去し屋代島に移りますが。
5474 大野氏 yama_no1p 03/08 14:39
呑舟様
詳しくありがとうございます。
その、山野井順平(準平)は、道澤の長男で私の4代前になる方だと思います。
その子孫が私と言う事になるのですが、もうその頃の話を知っている親族がいなくなっているものですから、こちらならと思い投稿させて頂きました。
やはり、呑舟様のような詳しい方がいらっしゃり嬉しく思います。
これから更に、調べていこうと思います。
山野井は、山井と言われていたときもあったそうです。
柿本人麻呂も、かきのもとと呼ばれていたように、山井と書いて、やまのいだったのかもしれませんね。
能美 宝持寺の住職も、今は私よりお若いです。今度伺ってゆっくりお話を聞きたいと思います。
大野氏については初めて知りましたので、これから調べていく参考にさせていただきます。
ありがとうございます。
5475 展開を祝す 今城 03/08 16:33
yama_no1pさん
進展があって良かったですね。これからも判らないこと、判ったことなど、どんな小さなことでも皆さんの参考になると思いますので、どしどし投稿して下さい。塵も積もれば山となると申しますが、積み上げたデータが手懸りとなって、思いもかけぬ展開となることもあります。今回談話室ゆづきにお出でになったのも一つのご縁と思いますので、今後も宜しくお願いします。
5476 今城様 yama_no1p 03/08 16:41
ありがとうございます。
河野氏との関りについても並行して調べたいと思いますので、
ちょくちょく登場するかもしれませんが、よろしくお願いします。
5477 呑舟様 yama_no1p 03/08 16:52
もう一つ、いいですか?
おっしゃる、伊予の大野氏は、備前の長船鍛冶と係わりがあったでしょうか?
そこで、刀とか作らせていましたでしょうか?
うちにも、鑑定はしてませんが、長船祐貞の脇差しが存在しています。
5478 さあ・・・ 呑舟 03/08 18:14
今の所、刀についてはよくわかりません。四国退去の折に書画・武具等を持ち出した記録はありますが、目録までは判明していません。
それと能島村上が旧来島領の江田島 能美島を領したのは天正13年(1585)で翌年には河野通直も大野直昌等と竹原に落去し、甥の直政は山野井源兵衛宅に居候していたのではないかと思われる。このあたりのことが貴家の文書に残っていれば非常にありがたい。別の大野隆直(直秀・傳兵衛とも云う---大野直政の父親で大野直昌の腹違いの兄)
という人物が記録されていないかなど。
山野井家は今の行政区上 どこに住居がありましたでしょうか?
宝持寺の住所と宗派をお教え頂けませんでしょうか?
5481 文書 yama_no1p 03/09 11:46
私の手元には、文書らしきは一つもありません。
あるのは、山野井・村上家の5代前までの謄本らしき物です。
長男(叔父)のところには恐らくあると思います。
山野井家は旧:佐伯郡大柿町大原(現:江田島市大柿町)です。
宝持寺の住所は番地まではわかりませんが、大柿町大原です。
'99年の豪雨で、寺社は倒壊しましたので、現在は川の向い側の住宅に住んでおられます。
その時、倒壊の直前犬が吼え知らせてくれたので、全員外に出て無事だったようです。
本尊も、奇跡的に飛び出し無事でした。
宗派は、曹洞宗ですが、資料に寄ると、808年に真言密教の道場として建立されたようです。
それから言うと、私で69代に当るので、当時から山野井が関っていたのでは?と思います。
5482 誤りです yama_no1p 03/09 12:22
宝持寺、建立は大同2年 807年の誤りです。
5483 なるほど 呑舟 03/09 13:58
曹洞宗ですと能島村上家 屋代島大野家と同じですね。
ネットを見てましたら能美島大原村の山野井元恵さんの事がありましたが、
先祖になりますか?
それと大柿の山野井家は現在、太古小学校と灘尾記念館の間に位置していることに
なってますが、昔からその地にありましたでしょうか?
また山野井家は伊予・越智 河野系図に出てくる盛孝を祖としているのではないでしょうか?
このサイトの河野家オーソリティの笑人先生が以前言及されてましたので、笑人先生
コメントをお願いします。
ついでに大野家は為世の子 経興から派生すると書いてあるのもありますのでわかれば
教えて頂きたい。
5484 ふむふむ・・・ yama_no1p 03/09 14:20
山野井元恵さんの事はわたしも読み、ずいぶん前ですが、書かれた方にも質問しましたが、判明しませんでした。
はい、資料館と大古小学校の間に位置します。
少なくとも400年はそこにあると聞いてますので、恐らくもっと前からでしょう。
そうですね、その河野氏や、伊予・越智家などとどういう関係があったのかがまだわかりませんね・・・
笑人先生様、何かわかれば教えてくださいませ。
5485 イメージが湧いてきました 呑舟 03/09 15:57
山野井元恵氏のなにが分からなかったのでしょうか?
以前からあの場所という事は、400年前は湾がもっと中に入り込んでいて浜辺に近い状態ではなかったかと思われますが?
大君村の浄円寺は宝持寺と以前は宗派は同じではありませんかね?
5486 湾ですか!? yama_no1p 03/09 18:25
恐らく先祖様だと思うのですが、解からなかったのは元恵さんが何代前か、本家筋なのかどうかです。
大君の浄円寺は、資料によると真宗西本願寺派になってます。【能美島誌による】
あと、大原村の妙慶寺は東本願寺派で、山野井入道宗和の母妙慶尼の建立とあります。
5487 賑わいを拝察しております 遊行笑人 03/09 18:49
山野井さま、ご先祖を偲び・・湯築城に確か以前に御出で為さったかと。
笑人も今から七年程前にフーラムの前身『守る会』にお伺いして出会い・・・今城殿やmaru阿弥師に師事して、その間において諸処の河野氏の諸派の出自とご見識豊かな関係各氏の長期に渡る情報交換、教示の積み重ねにて、念願の直系先祖の伊予の歴史背景と生き様の所以を、徐々に解明挿せて戴きました。さて何時の時代も命の源流を辿るは、水が下地に流下るは自然の定理ですが、伊予之国の歴史は余りのも膨大無比の歴史史料の不解明な諸説・源・支点が存在しており、表れたり、即座に消えたり、その時代時代で、上(神代)から下(其の後、平安・鎌倉・南北朝・室町・戦国時代・江戸と)へ、次第に明確な足跡を残して史料も数々と整って行くも、政治体制の変遷を辿り、学術的にも、明かな歴史背景の信憑性が、ある時代から先は・・・私も手許の家伝の系図・・・資料(史料)でも見つからず、なかなか難儀な旅路なのです。
一つの方策としては、逆に遡ることが、想いの他先祖の出自に到達する近道かと考えます。
先ずは、自家の菩提寺に赴き過去帳を尋ねて・・・大正・・明治・・江戸と言うように、先祖の時代を知り得て、・・・地元の市史・郡史・町史を読み耽り・・・先人の歴史上の記述の内に同姓・同氏名の実在の人物を探す努力が、功を為すことも比較的身を持って体験した事でした。何分にも根気と情報の収集が・・・お探しのご先祖さまにお目にかかれる最良の手立てかと。
5488 はいはい 呑舟 03/09 22:16
はいはい、笑人先生多く書きすぎて度忘れしてしまいましたね。
このサイトの2年前の#3396の難波江氏の所で、#3405で三嶋大祝家譜の記述を持ち出された中に江田島 山野井氏に言及されておられます。
また、兄弟サイトの「愛媛の歴史と文化財(史料室)」2006/6/12 欄で蟷螂の斧さんなる能美水軍山野井家の子孫の方の過去記事も掲載されています。
これらをつなぎ合わせていくとまだ断片史料なのでなんともいえませんが、越智河野の盛孝からでた山野井氏なら河野一族と云うことになります。
足利幕府の影響下にあったり、陶の配下にあって毛利と敵対するも許され、本拠地が
江田島の為、小早川の直接の指揮に入ったりしてたのではないでしょうか。
能美氏と同族なら 能美氏は来島村上の家臣だったと記憶しますので、戦国時代はつらい立場にあったのではないでしょうか?
どちらにしろ毛利家が防長2国に押し込められるまでは、来島村上配下の水軍として
活躍していたのではないでしょうか?
秀吉の海賊禁止令がでるまでは なんといっても瀬戸内海周辺諸国を統治するには
水軍力の多寡が重要ではなかったかと思われます。
陶側水軍であっても忠誠を誓えばすぐ毛利側に付けたのでしょう。
戦国時代の戦(いくさ)はある意味ではおおらかで、戦って負けを認めて自分に味方するなら外様として取り立てる戦力増強の将棋のような丸取り制のルールがあったのでしょう。
山野井家の住居にこだわったのは水軍の拠点ではなかったかと思ったからです。
400年前は大原湾が今の大柿高校のあたりまで入りこんでなかったかなと感じたからです。
大原湾は湾の中の湾の形をいまでもしていますので、船を隠すにはもってこいの
形状をしてますよね。厳島神社のあの大鳥居の一本を大原湾から運び出している
そうですから、能美島は豊かな森と良港に恵まれていたことになりますね。
現山野井家の周りに馬場とか堀とかと云う地名が残っていますよね。なんらかの城があった気がしますが郷土の歴史家や教育委員会はなんといってますか?
元の海岸線は地質上分かりますので、教育委員会か土木課に資料があると思います。
それと山野井元恵氏に言及したのは 能美で山野井を名乗るなら同族と思われるので
すが、この方はご承知のとうりかの有名な華岡青洲に医学を学びに嘉永六年(1853)に和歌山に向け出立してるのですが、その時の「通行手形」が灘尾文部大臣記念館に残されているそうですが、発行元が真宗浄円寺なものですから。
通行手形は武士なら藩庁ですがそれ以外は檀那寺が発行しますので曹洞宗宝持寺と異なるのに違和感を覚えました。
もっとも明治初期の廃仏棄釈で滅茶苦茶に寺はなってますが。
そんな目にあってませんかね。
あと叔父さんに古いものは棄てないないようにお願いします。
言い忘れましたが、山野井文書は水軍関係資料として九州帝国大学が筆写したものです。
瀬戸内水軍専門家の山内 譲先生もしらないのでないかな?
5489 Re:5488 蟷螂の斧さんの記事の場所 今城 03/09 23:14
呑舟さま
隅から隅まで良く調べていらっしゃいますね。ただし一ヶ所訂正しておきます。
> また、兄弟サイトの「愛媛の歴史と文化財(史料室)」2006/6/12 欄で
> 蟷螂の斧さんなる能美水軍山野井家の子孫の方の過去記事も掲載されています。
愛媛の歴史と文化財(史料室)」と記していらっしゃいますが、今は「探索・探訪」
に統一しております。日付は 2006/6/12 で、間違いありません。
差し出がましく、申し訳ありません。
5490 失礼しました 呑舟 03/09 23:54
プリントアウトしたらそう出てまいりましたので つい ・・・
5491 Re-5490 間違いではありません 今城 03/10 00:24
いえ、間違いではありません。最初は確かに「愛媛の歴史と文化財(資料室)」と題するブログに保存していました。ところがそのブログに少々危険を感じたのと、「探索・探訪」との区分が必ずしも明確でないことから、両者を「探索・探訪」に統合し、「愛媛の歴史と文化財(資料室)」を廃止したと言う経緯があります。多分統合する以前のコピーをお持ちなのだと思います。そしてそのことは、呑舟さまが常に詳細に調べ、しかもきちんと整理していらっしゃることを物語るものと敬服いたします。今後とも宜しくお願い致します。
5504 みなさまありがとうございます。 yama_no1p 03/12 16:44
みなさま、引き続きの書込み、ご指導ありがとうございます。
今は、公私共々バタバタしていますので、落ち着きましたら菩提寺の宝持寺に伺いお話を聞いてまいります。
ただ、'99年の倒壊でどの程度の資料があるかは定かではありません。
がんばってきますので、そのときにはまた書込みアップさせていただきます。
途中でも何かわかりましたら追記いたしますので、これからもよろしくお願いします。
5506 頑張ってください 呑舟 03/12 20:55
大野関係者と村上関係者の記述もよろしくお願いします。
倒壊時の水濡れ資料は重要なものはほとんどボランティアの方が修復保存処理をされ
中味も仏典・仏画の類がほとんどで古文書のようなものはリストあまり上がって
なかったとおもいますので、期待はできるかと思います。
5507 420年前は山野井は山井です。 呑舟 03/15 10:57
気になりましたので古い資料を見直していましたら、村上文書の中の「能嶋家来分限帳」に
八拾弐石四斗一升六合で家来中3番目の高禄の友田次兵衛の欄に
「世倅 是水儀者 能美嶋 山井源兵衛 与申、庄屋所江入歩ニ参 逗留之生申候」
とありこれは天正16年(1588)のことですのでこの時期は山野井は山井を名乗り
能美嶋の庄屋であったことになります。
何年か前にこの記録を頼りに西能美の教育委員会に調べにいったことがありますが
大柿町は素通りしていました。
今回の件で大柿町大原と特定できて喜んでいます。
大原から屋代島和田までは海路およそ30キロ、当時の航海術なら2〜3時間の
距離ですね。同じ道を今 車なら6時間以上かかりますから、当時の水軍の時間軸は
海路ならで計算しないと間違うことを再確認しました。
和田は能島村上の長州での根拠地です。
人名を整理しておきます。
大野隆直(備前介・左近太夫・久万王・直秀・変名 冨永傳(源)兵衛)
大野利直の子、直昌、直之の兄 筑前黒崎にて客死。
娘を村上左馬右衛門に嫁せ跡目も譲る。
孫は筑前黒田家で活躍する。
大野直政(変名 友田次兵衛 兵庫助 久万王 母曽根信孝の女)屋代島大野家初代
大野隆直の嫡男・能島家家老・姫路にて秀吉の誘いを断ったため
村上武吉とともに秀吉の恨みをかい、毛利・小早川の取り成しで
切腹断絶は免れた。よって名前を大野から友田に変名した。
大野直房(三郎右衛門・勝右衛門・落髪後 是水)
大野直政嫡男 天正16年能美島山井源兵衛宅で誕生
後、徳川の世になり 大野姓に復帰する。
『村上文書は直房を落髪後の号 是水として表記しているので「分限帳」
はすくなくとも彼が落髪した後 書かれたことがわかる。』
この時代明治維新と同じく、改名変名多く 古文書は丁寧に読まないとこんがらがります。
5587 確かに盛孝です yama_no1p 04/17 09:54
呑舟さま、先日田舎に行き、菩提寺を訪ね、田舎の家に行っていりました。
宝持寺には過去帳などは全てなくなっているそうです。
田舎の仏壇の奥のほうを探すと、古い過去帳が出てきました。
これからそれらを分析してみます。
広島県の文書館に行き、山野井家文書を閲覧複写してまいりました。
呑舟さんの書込み5488の通り、山野井の祖は盛孝となっていました。
更にビックリしたのは、皆様ご存知とは思いますが、初代は孝霊天皇の二男、彦狭島命とありました。
また、調べてアップいたします。
5588 よかったですね 呑舟 04/17 11:04
これで越智・河野一族の山野井となりますね。
山野井文書の存在は知っていましたが、現物はまだ見ていません。
内容はどのようなものでしょうか。村上・大野・友田・冨永なる人物の
表記はありませんか?
5589 達筆で・・・ yama_no1p 04/17 11:35
山野井家文書は達筆すぎて私には読む事ができませんでした。
活字化されたものがあると文書館の人が言われていましたよ。
大柿町誌でも、当然村上氏は出てきますし、友田の名前も記憶にあります。
大野・富永については不明です。
さらに調べてみます!
5591 そうですか 呑舟 04/17 12:10
できればコピーを頂けませんかね?
友田の名は山野井文書にあるのですか?それとも大柿町史のあるのですか?
5595 くわしくは・・・ yama_no1p 04/17 13:22
山野井家文書は読めませんでしたのではっきりわかりません。
コピーも山野井氏家譜の10枚しかしませんでした。
友田の名前も大柿町誌か、ほかだったかもしれません。
現在、大柿町誌は知人に化していますので、今ははっきり申しあげれられずすみません。
広島にこられる事がありましたらここ⇒広島県文書館にいかれてください。http://www.pref.hiroshima.jp/soumu/bunsyo/monjokan/index.htm
http://www.pref.hiroshima.jp/soumu/bunsyo/monjokan/sub10-38.html
広島県に関係するたいていの文書がここにあるようです。
5598 友田氏 yama_no1p 04/17 16:23
広島県廿日市市の洞雲寺に、友田興藤の墓があるようですが、呑舟様の友田氏の関係でしょうか?
ここから1554年に骨州禅師を招き、当家菩提寺の宝持寺を再興しています。
洞雲寺には、陶春賢・桂元澄の墓もあるようです。
5599 さあ 呑舟 04/17 16:42
文書舘の係員に「山野井文書」と言えばわかりますかね?
友田興藤は確か厳島合戦の宮島の城主だったと思いますが、直接は関係ないと
思います。彼の名を借りただけと思います。
友田治兵衛は大野直政が秀吉に味方しなかった為、身の危険を感じての変名です。
江田島の山野井家に居候してそこで息子の直房(是水)を山野井家で誕生させて
います。今の所 母親が分かりません。ひょっとすると貴家の息女かもしれません。
そうなれば大野家とは縁戚関係になります。
5600 文書館 yama_no1p 04/17 17:32
P01- 93 山野井家文書 山野井家文書(『広島県史』古代中世資料編4所収文書を含む) 『複製資料目録』1集 2冊
私も初めていったのですが、規定の書類に上の文献番号と文献名身元などを記入して閲覧します。
コピーが1枚10円でした。職員さんがやってくれます。
家譜には、河野家初代の玉興の事も書いてあります。
玉興【号散位伊大夫又号伊豫大領自是改小千之姓字而爲越智称河野】
彦侠嶋尊から数えて20代目のようです。
5601 はい 呑舟 04/17 18:24
これはに転記資料ですか?刊行物ですか?何ページくらいありますか?
私はまた国替えで信州松本に転封になっていますので、当分お目にかかれそうもない
ですね。文書舘にコピー送付サービスがあればいいのですが、問い合わせて見ましょう
。
5602 いずれも yama_no1p 04/17 19:25
信州ですか・・・それは難しいですね、なかなか
いずでも文書は筆で書いてるものです。
もし、難しいようであればおっしゃっていただければコピーしにいきますが、まずはお目を通された方がいいでしょうね。
ただ、これは活字化されているようです。
5624 花祭りに yama_no1p 04/26 18:23
今度、宝持寺の説法会で5月の6日に花祭りが開催されます。
そこに参加させていただくことになりました。
宝持寺の住職さんも大変喜んでいただけました。
ただ、お寺の山門や、釣鐘堂の土台、六地蔵尊をまともに直撃する道路の計画があるようです。
残すことが正しいかどうかはわかりませんが、私としては倒壊した宝持寺を復興することが島民全体、歴史の復興になると思い、宝持寺復興委員会にも参加させていただくことになりました。
皆様とは深いかかわりの無いお話ですが、伊予と能美のつながりを思い書かせていただきました。
そのうち、役場や資料館にもいって深く調べてまいります。
5625 越智姓河野氏と同姓山野井氏とは! 遊行笑人 04/26 19:30
ご無沙汰しております。・・伊予と能美の繋がりも、大切な古き時代を偲び、今に甦らせる貴重な先祖供養かと!・・・現代の近代化にて消え失せる史跡を残すご尽力を期待します。
5653 進展ありました yama_no1p 05/17 16:01
先日、長男である叔父宅に行きいろいろ話しを聞いてまいりました。
やはり、呑舟様の言われる通り、山野井家のすぐ下まで海で、大きな雁木があり、
そこから堀というところまで船で渡っていたといっていました。
堀というのは、能美城時代は外堀だったようです。
そのあたりに山野井家の別荘があったと近所のおばあさんが言われていました。
その方たちの年代が同時を知る最期の年代だと思いますので、これからご健在のうちにいろいろとうかがうことが出来ればと思います。
また、何かわかりましたら書き込みいたします。
5654 もうひとつ yama_no1p 05/17 16:48
家譜図によりますと、当家11代重久は、
前景親、武吉次男とあります。
この方は、過去帳によると、慶安4年(1651)4月7日に他界していますので
96歳まで活きたことになるでしょうか。
当家初代(能美島開基)は清景です。
39代親孝の3男 能長-頼季-信秀-秀清-清影とあります。
手元にある過去帳で一番古いものがこの時代(慶安)からです。
それ以前は今のところ見つかっていません。
女性については、何々の妻とか、娘とあり名前はわからないです・・・
5655 訂正します yama_no1p 05/17 17:45
39代親孝の3男←×
39代親孝の3男 盛孝の3男? 能長でした。
あと、村上水軍年譜によると、1610年 慶長15 村上景親、没(享年53歳)
とありますね・・・
どちらが正解なのでしょうか・・・
5656 やはり海と接していましたか! 呑舟 05/17 19:39
地図で地形をみる限りそんな気がしていましたが。
当家11代重久 前景親で武吉次男とは村上家総大将村上武吉の次男と云うことですかね?なかなか面白い記述ですね。前後関係はどのように書かれていますか?
武吉の子は嫡男が元吉(松山三津が浜で討死)次男景親であり後、八代島で嫡男家を村上図書家、景親家を別家として毛利から一學家として今日まで続いています。
伝来の書のほとんどは図書家は山口縣文書舘に 一學家のは能嶋の水軍記念館に寄贈
されています。
没年はいま手元に史料がありませんのでわかりません。
景親に山野井の女を娶わせていませんかね?正妻としてではなく。
そうであれば山野井系図の整合性がでてきます。
秀清の清と景親の景(影)で清景ではないでしょうか?
そうであれば河野の血に村上の血が交流したことになります。
大野直房もそんな状況で生まれたのではないかなと想像しています。
当時はそのようなことは当たり前だったと思われます。
現在の子孫のDNA鑑定すれば400年以上経っていても分かるのですが。
5658 峯という名前 take1 05/18 04:20
はじめまして。
私は山野井の傍流の竹中家のものですが、
うちに伝わる話によれば、山野井の前は峯(みね)という名
だったということです。これについて文書には何か書かれて
いるでしょうか。
ちなみに、聞くところによると、山野井家は毛利移封後に
帰農したということらしいんですが、これについてはどう
なっていますか。そのへんのところが分かれば教えてください。
5659 はじめまして 呑舟 05/18 07:39
いつの代に山野井家から分かれたかわかりませんか?
竹中家は江戸時代どこに住んでいましたでしょうか?
山野井家は天正16年には庄屋職となっていますからそれ以前に帰農しているものと思われます。ですから移封以前ですね。
5660 峯 yama_no1p 05/18 09:22
take1さまはじめまして。
峯という屋号は聞いたことがありません、もしかしたら文献を詳しく読むとあるかもしれませんが、そこまで確認できていません。
呑舟さま
DNAですか・・・興味ありますね。
私、歴史に詳しくないので移封という言葉すら知りません・・・
調べたところによると、元和5年に海路から広島に入る浅野長晟を出迎える。
その頃、武を捨て農に帰すとあります。
寛永15.16年蔵入地 地詰により山野井氏土豪としての支配力を失うとあります。
11代重久の戒名が宝持寺○○○…とあるので、住職に聞いたところ、
宝持寺に多大な貢献をされたのでしょうということでした。
倒壊した建物はちょうど300数十年だといわれてましたので、重久がその建物建設に貢献したかと思われます。
@清景
A景親←??
B景眞
C眞氏
D氏重
E重秀
F仲次
G景頼 加賀守
H景秀 万菊千寿丸 又 民部卿丸
I景重
J重久 子:清蔵 妾服
K重次
などなどとなっています。
この中で、後源兵衛という言葉がたくさん出てきますので、
資料にある山野井源兵衛というのは元服した人ということなのでしょうか・・・
重久が山野井から嫁をもらったかどうかは判断できませんです。
5663 なるほど 呑舟 05/18 23:55
広島城を勝手に修復したとイチャモンをつけて豊臣恩顧の福島正則を改易にし
替わりに紀州から息のかかった浅野長晟の広島入りの水先案内をしたと云うこと
は当時(1619)まだ水軍としての機能が残っていたのでしょうね。
源兵衛が何度もでてくるなら宗家の当主として代々引き継がれる名乗りでしょう。
5664 詳しくはわかりませんが take1 05/19 03:04
山野井喜七、竹中喜六、山西家、上本家、大段家、山田家が
1700年ごろ分家したらしいです。
竹中家は能美の鹿川(かのかわ)村に住み、確か勝善寺に
関係があったと思います。
5665 10代景重の yama_no1p 05/19 08:55
11代重久(武吉次男:景親)の妻は、10代景重の娘でした。
名前は分かりませんが、承応2年に他界しています。
源兵衛とは家督を継いだ者という意味なんですね、ありがとうございます。
take1さんの山野井喜七は私の資料にはありません。
当家も、13代の4男からの分家になるようです。
その分家初代は重近で、越智を名乗っていたようです。
5666 景重の娘ですか 呑舟 05/19 11:35
なら考えられますね。景重に姉妹がいて、友田治兵衛の妻となっていませんかね?
村上家文書からすると当時、西能美を所領し庄屋山野井家に逗留しており、そこで息子
を誕生させていますので、前にも書きましたが母親は山野井の娘さんではないかと
考えています。
5667 これ以前は・・・ yama_no1p 05/19 11:54
呑舟さま、手元にある当家の家譜図は11代より兄弟の関係が記されており、10代景重の姉妹関係は分かりません・・・
それで、友田とおっしゃっておられたのですね。
5670 そうですか 呑舟 05/19 22:19
その前の系譜を探したいですね。
友田治兵衛は系譜によると前妻が村上武吉の娘、元吉の姉となっておりますが村上系譜には記述がありません。早世したので後妻で安持弥助の娘継子をもらったことになっています。せがれ直房(是水)が山野井家で生まれたことになっていますが母が誰か特定
できません。直房以外の子を産んでいないか知りたいところです。異母なら同時に子を授かることもできますから。
5673 村上景親 没年 呑舟 05/22 01:13
村上武吉二男景親の没年は慶長15年2月9日死 53歳となっています。
菩提寺は屋代島和田村旧大龍寺を照元寺と改めた処です。
但し一学家(景親)菩提寺は正徳6年屋代島屋代村徳神の浄福寺を芳心院と改名
して引き移り、明治3年宗家菩提寺大龍寺と合併するにあたり、一字づつ取り
現在、屋代島村上家菩提寺、龍心寺となっています。
5674 たしかに・・・ yama_no1p 05/22 11:11
私も、呑舟さまの記述のとおり没年は慶長15年2月9日死 53歳は確認しています。
この家譜図がいつごろかかれたものか確認していませんが
まったくのでっち上げとも思えないのです。
広島県の文書館に写しが保存されています。
現在、水軍博物館にも問い合わせをしているところです。
没年・・・といいながらその後能美島に身を移したということは考えられないでしょうか?
5677 すうですね 呑舟 05/22 20:39
問題は系図がいつ誰によって書かれたかでしょうね。
系図は宗家であれば書き継いでいきますから、原本であれば書体が変ったり
してすぐ分かりますがます何百年と耐える素材(紙)をつないでいくのは大変
難しいでしょう。虫食い等で何代に一度清書し直していくのが普通でしょう。
また分家が本家のを筆写して分かれていったこともあると思います。問題はこの
時に正確に写さず故意か過失かまたは先代の書体が読めず誤ったり、はては
故意に事実以外を装飾して付け加えたりされていますので、我家伝来といえども
鵜呑みにはできません。
系譜の中で年代の一番新しいのは何年ですか?系譜を書いたり写した人は自分の
没年は分かりませんから一番新しい年代が分かり没年がない人が書いたのが想定
できます。
昔から系図屋なる怪しい者が系図の売買をしていたこともあって現在の各家に残る
系図がなんら誤りがないと言えるものは皆無ではないでしょか?
あの徳川家康でさえ先祖をデッチあげて征夷大将軍になり デッチあげ損ねた秀吉
は関白で我慢せざるを得ませんでした。
かと言って貴家の系図が偽りと言っているわけではありません。
たぶん没年は他のどなたかの錯誤でしょう。多分筆写するとき多い間違いです。
一般的に言えば武吉二男景親が山野井家に養子に入ることはありえません。
事実能美を去った後の景親の屋代島での消息は記録に残されていますから。
要は天正10年に江田島を武吉が安堵されてから慶長5年に屋代島に能島村上一党が
移るまでの間に山野井家とどのようなかかわりがあったかでしょう。
私は慶長3年に秀吉逝去にともない再び瀬戸内に領土を与えられて5年に屋代島に移る
わずか2年弱の間に「胤貸し」をしたとみています。なら両家の系図の辻褄は合います。
5678 詳しくありがとうございます。 yama_no1p 05/23 09:20
呑舟さま、詳しくありがとうございます。
家譜図は22代まで書かれていますが、年代は現在の資料では分かりません。
年代の分かる過去帳は文化11年のものがあります。
すでに、そこにも11代重久は記されています。
家譜図には没年はありませんが、前にも書いたように
『前景親 異本有之後改重久
三兵衛後源兵衛
實村上大和守武吉次男』
そして、過去帳に重久妻10代景重娘 とあります。
んー?
養子という表現がどうか分かりませんが、その時代の過去帳や書いたものをみると
村上、越智を名乗っていた記録もございます。
安易に判断するのは確かにどうかと思いますので、もう少し詳しく調べてみます。
ありがとうございます。
5679 まだまだですね 呑舟 05/23 10:51
『前景親 異本有之後改重久
三兵衛後源兵衛
實村上大和守武吉次男』
この表記の中で「異本有之」の意味はなんなのでしょうか?
キーワード臭いのですが?
遠祖は河野一族ですから越智を名乗っても不思議はありません。
村上も記録に留めない血の交わりがこの時代やそれ以前にたくさん他にも
例がありますので別におかしくはありません、記録がないか見つからないので
後世の我々が困っているだけです。
ひょんな所に隠れていたりしますから根気強くするしかありません。
5696 天下統一V yama_no1p 06/19 16:00
中国語の文章ですが、皆様の何かのお役にたちますでしょうか?
1537年〜1539年の出来事と思われることが書いてあります。
ヤフーなどで翻訳するとおかしい文章になるので、中国語がわかられる方がいらっしゃいましたら閲覧ください。
ヤフー翻訳でも意味はなんとなくわかります。
http://72.14.235.104/search?q=cache:w_NODUFFmIsJ:gaojing.fjzz.net/wyxa/wyxa20a.html+%E8%83%BD%E7%BE%8E%E5%9F%8E&hl=ja&ct=clnk&cd=5&gl=jp
5764 気になっていましたが 呑舟 07/26 17:06
『前景親 異本有之後改重久
三兵衛後源兵衛
實村上大和守武吉次男』
異本有之の文字が気になっていましたが、やはりこれは素直に解釈して
「当家の文書や言い伝えではこうなっているが、別の文書ではそうなっていない」と
異なる点を自ら認識した上での注釈の書込みと思われます。
5765 なるほど・・・ yama_no1p 07/27 11:12
呑舟さま、ありがとうございます。
そういう意味の言葉なのですね。
なぜ、そういう言い伝えになったのかもう知る人はいないと思いますので
この件についてはお蔵入りですね。
気にかけていただきありがとうございました。
その後、何か進展がありましたら報告いたします。
皆様、今後ともよろしくお願いします。
5766 能美城主は? 呑舟 07/27 21:57
能美城の城主は誰と記録されてますかね?
小早川領時代なら因島村上か家臣の乃美か下って野島村上景親かと思われますが
天文・天正のころの城主が知りたいのですが?
町史にはなんて書かれてありますかね?
5779 能美城主は yama_no1p 07/30 17:37
大柿町史の能美城を抜粋して見ます。
能美城
大原邑にあり、芸備故城史に曰く、某山伝え言う、
河野親孝の裔山野井源八兵衛清景、左馬亮景親、源兵衛尉景眞凡そ三世此に居す。
源兵衛尉真氏に至り、去つて庶人となると云う。
○予章記に謂う、貞治三年夏四月、細川頼之予州高縄城を攻む、河野通堯敗れて官軍と九州に在らんと欲し、芸州能美に走る。
山野井源兵衛厚く之を遇し、通堯其属徒五百余騎と能美に陳(陣)す。
とあります。
その後ろに『芸藩通史』の「故家」にも次の記述があるようです。
大原村山野井氏
先祖山野井清景は、伊予国河野秀清が子なり、此国に来り、始て能美島を開き、松尾山の城に居る。
四世直氏(※真ではない)応永の比山城を毀て、別に第宅を構え大原村に居る。
代十世景重、朝鮮の役に従ふ、十一世重久より農間に降り里正となる。
元和中藩君入封の日、船にて迎奉り、貝蛤、蜜柑など進らす、今に至り、君公東行、船路なれば、此物を奉るを例とす。
祖清景より、今源五郎まで、凡廿世、家に足利将軍御教書、大内家感謝状等を蔵す。
鹿川村に同族あり。其祖八大夫、朝鮮の役に従ひ、帰朝の後別家す。其家、朝鮮飯器を蔵す。
とあります。
最後に武を捨て、農に帰したのは11代重久のようです。
※本を見ながらなので、誤字・誤文があれば申し訳ありません。
5781 詳しくなりましたね 呑舟 08/03 09:31
「○予章記に謂う、貞治三年夏四月、細川頼之予州高縄城を攻む、河野通堯敗れて官軍と九州に在らんと欲し、芸州能美に走る。
山野井源兵衛厚く之を遇し、通堯其属徒五百余騎と能美に陳(陣)」
貞治3年は正平19年(1364)で能美に逃れたのは同年11月と記されています。
山野井家を河野通堯(通直)が頼ったのは彼等が山野井は同族であり且つ同時期は
北朝側に属していたと思われます(後に南朝に帰順するのであるが)
いくら能美大原が大きいといえども500騎もこられたら大変だったと思われる。
1騎(10〜15人)だから最大7000名前後が能美に押し寄せたことになります。
細川軍の侵入によって越智大島にいた村上義弘・今岡通任らも本拠を失って敗走し
屋代島に逃れて中子左衛門太夫を頼ったとあります。
河野通堯が能美島を離れ屋代島和田の村上義弘・今岡通任と合流したのは正平20年
(1365)5月のことであった。
河野勢の正岡は能美に残っていたらしく正平23年(1368)6月になって通堯の伊予
恢復の兵を上げた時に参集しています。
この正岡は正岡子規の先祖です。
よって南北朝以前から山野井氏は能美を支配していたのでしょう。
「元和中藩君入封の日、船にて迎奉り、貝蛤、蜜柑など進らす、今に至り、君公東行、船路なれば、此物を奉るを例とす」
これは前にも書きました1619年の浅野氏広島入城時のことと思われます。
蜜柑の文字に興味がわきました。
蜜柑は高級果物で果たしてこの時期にあったのかと?
あったとしても今の温州みかんのような甘くて美味いものではなく
橘の変形した今の夏蜜柑のの原形ではなかったかと想像しています。
それでも当時」は最高級の食べ物だったのでしょう。
瀬戸内海の段々畑と気候は柑橘類の栽培に適していて、今でも愛媛の温州みかんは
日本一ですから。酸味が少ないので静岡蜜柑と違って日持ちがしないのが玉に疵ですが。何年か前の台風で蜜柑畑が大打撃をうけましたが。
この記述は浅野の参勤交代の時 海路を利用する場合は山野井家に泊まり先例に従いて
山野井家は蛤と蜜柑を出したことを意味していると思いますので、浅野家の参勤交代
の記録は克明に残っていると思いますので広島県文書館で調べたらと思います。
もっとも海路は陸路の比べると費用がかさむのでだんだん陸路が増えますが。
この時の宿泊施設は山野井家そのものではなく山野井の寺である宝持寺ではなかったかと想像しています。宝持寺の記録に残っていませんかね。
もしくは殿様用の部屋が本堂の仏壇の左側に最上壇の間としてあった記録はありませんか?
屋代島の沖加室も同様な海の駅ですがホテルの役割は清泊寺がしていました。
ここにもロイヤルルームが本堂の仏壇わきにありました。
後、ついでに宝持寺の縁起か棟札の記録がないか住職が教育委員会に問い合わせして
みるのも新しい発見があるかもしれません。
5783 景親は yama_no1p 08/03 10:38
ここに出て来る、景親は、武吉二男の景親でなく、もっと前の景親になるんですよね?
時代が違いすぎますよね。
今の山野井家の家は、約450年位前の建物らしく、当時は相当大きかったようです。
残念ながら宝持寺の記録は'99年の倒壊でほとんどといっていいほど残っていないので
私の手元にある過去帳などが唯一かもしれません。
住職の実家に壊れた仏像や文書が若干ありますが、今の段階で開けてみるのはかなりの労力がかかりそうですね。
山野井重久が宝持寺再建に貢献したのは、役場の記録や過去帳の法名などから間違いはないかと思います。
実は私は本家筋ではなく、ちょっと前まで住職と再建にくけて一緒にやっていきましょうといってたのですが、本家の息子(いとこ)がわしがやると言い出しまして・・・
ちょっとしょげているところです。
まあ、出来ることからはじめようと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
なにせ、島なのでちょっと行くにも1時間半かかりますので、未だに灘尾記念館にもいけてない状況です。
5785 良かったですね(笑) 呑舟 08/03 11:50
気合ですよ(笑)
本家が言い出したことは良いことです。
どうせ、予算(寄付)の話が出てきますからそこは本家に頑張って頂ける環境ができたので
逆に分家は楽です。本家以上に金はだせませんから(笑)
一族の者として筋を通す発言権は確保して奉加帳に最初に寄付金を書き込まなくて済みますから楽ですよ。
これは因習ですからネットを見てる方は意味が分からないひともいるかもしれませんね。
頑張ってください!
5849 山之井家版予章記 呑舟 08/26 18:01
景浦勉先生によると「河野家譜」予陽・築山本とも予章記に基づいて作成されているが、その予章記も上蔵院本と群書類従本ともう一つ山之井本があるとのこと。
この山之井本は三島大祝家伝来といい広島県能美島山之井家所蔵となっています。
と言うことは貴家の御本家が所蔵ということになりますが「大祝家伝来予章記」の
存在を本家に確認してもらえませんか?
中味は別二本と相当異なるとのことで、景浦先生は異本とされていますが、どこがどう
異本なのか興味のあるところです。
今城先生! 伊予史談会に写しはありませんかね?
5866 タイトルは yama_no1p 09/12 18:20
呑舟様、この書物のタイトルは「大祝家伝来予章記」というものですか?
5867 はい 呑舟 09/13 08:01
多分そうだと思います。
大祝伝来と景浦先生も記していますから。
数ある予章記の中で一番古い書体なのですが
いかんせん錯乱が多い為 異本と分類されているとのことです。
伊予河野家の重要な什書のひとつが能美島山野井家に伝来している
こと自体、山野井家と河野(越智)家の関係は濃く、且つ一番古い
形体をのこしていることは非常に重要と見ています。
もしかすると一番原形に近いとされる上蔵院本の前の形を残しているのでは
と思われます。
錯乱が多いとされるのは綴じ紐が切れてばらばらになったのを転記したせい
ではないかなと想像しています。
実際に当方が調査しています大野家の系図で伊予史談会所蔵のものに同じような
編綴間違いがあり、そうと知らずに読んでいて立ち往生したことがあります。
それは一カ所だけでしたからなんとか前後の文脈から元に戻すことができましたが
数カ所あったら分からなくなるでしょうね。
ついでにその誤りを管理してる愛媛県立図書館の職員に伝えると なんと
「その間違いも歴史の一部ですので、編綴を戻すことはいたしません」との
(迷言)に唖然としました。
ですから今も間違ったまま利用者を惑わせているとおもいます。
山野井家伝来予章記も詳細に検討すると宝石がちりばめられてる可能性があります。
6134 曾根田氏 usoneda 03/04 13:25
『広島県人物評伝』(大正12年)
曽根田家は、伊予の藩士、山の井家の後裔で字曾根田に住した関係から曾根田を名乗り、戦国の当時此処に移り住んで農に化したものである。
然も15代屋号を曾根田と称し、今日に至る地方屈指の旧家として知られている。
『芸藩通誌』
大原の山野井氏、先祖河野清景 伊予の河野秀清の子、この国に来たり能見島を開き松尾城に居す。
十世河野景重 朝鮮役より帰り十一世重久より農間に降り里正となる。
鹿川村に同族あり、その祖八太夫、挑戦役に従い帰朝の後別家す。その家朝鮮飯器を蔵す。
6142 久しぶりです 呑舟 03/05 04:15
久しぶりです。
明治30年に広島市河原町にお住みの 山野井源次郎さんはご存知でしょうか?
この方が山野井準平氏ではなく山野井家伝来の家譜並びにに感状等28通の正式な
所有者となっていますので、原本は氏が所有しているものと思われます。
しかし昭和20年8月6日まで市内で所有されていたのであれば原爆で焼失して
いる可能性がありますね。写本は幸いなことに東京大学にありますから内容は
わかりますが。同写本が広島高等師範(現広島大学)にもあることになっています。
広島県文書館所蔵と同じかもしれません。
これによると山野井文書の大半は大内氏陶氏の感状とたぶん村上通康の能美島
安堵状ですね。あて先さきはみな能美となっていますから山野井家は能美氏と
なりますね。能美は乃美とも書きますから戦国時代、毛利・小早川の一翼を担った
能美水軍となります。今の山野井は大内から陶に従っていますので、後、一族は
分裂し毛利・小早川に鞍替えしたほうが残っているのかと思われます。
乃美は毛利家では村上武吉を秀吉に誘いに乗らないように尽力した功臣です。
6160 山ノ井本河野家譜 usoneda 03/07 12:24
以前大原におられた山野井家に連絡をしましたところ、山野井百合子様からお返事が来て家譜や文書はないとのお答えでした、その後広島市内にお移りになり、資料は大柿町役場に移したとも聞いていたのですが。
昭和62年に、東大史料編纂所に問合せをいたしました折には、山ノ井本の写しはないとの回答でしたが、その後寄贈されたと言うことでしょうね。
家伝では、他に中町に中(村)氏があり、大原の山野井本家と鹿川の曾根田氏は兄弟が分れたもので、河野氏が南北朝時代讃岐の細川氏との争いに一時劣勢にあったとき、能美島を頼ったとも言われています。
祖父の残したものをみますと。「祖先は山野井氏より出て、小字曾根田の地を受けて現在の地に居住すること十五代農家なり。寛永十五年の地主名簿に記載あり。
鹿川の村社の「将軍社」の土地および中郷付近(現曾根田の屋敷があるところの字名、将軍社は屋敷の直ぐ後ろ)は皆山野井家の所有なるが、或夜一の井戸に光るもの在り毎晩現れる。良く熟視すればそこに御神体在り。、上の山に神社を作り祭る。「天大将軍社」と言う。
山野井家より別家したのがわが本家曾根田なり、元は当屋敷の上半分に屋敷があり、将軍社の番人は代々此の家が司る。以来曽根田家が宮番となり、後分家して当曾根田本家となる。「曽根川」や「曽根」などの分家あり。近来は本家より宮番を曽根川に移す。今の門前に在りし「宮下」および小鹿川に在りし「沖本」や「戸田」などは曽根栄三郎の使用人が分家せしものなり」と。
6161 山野井の由来 usoenda 03/07 12:30
山口県の山陽町大字山野井に調査に行きました折、役場で教育委員会も由来を御存知でなく、また「山陽町史」を買ってみましたが、記載はありませんでした。
田圃の中の小山に山野井八幡宮が在りましたので、お参りしてきました。
上記のように山内や陶に加担したのであれば、給地をもらい、その名を名乗ったのかもしれませんが、確定はできません。どなたかご存知の方がおられたらお教え下さい。
6163 なるほど 呑舟 03/07 16:04
面白いことになってきましたね。私はてっきり東大史料編纂所にすべて残っていると
思ったのですが、今編纂所所蔵目録をみると確かに山野井系譜1通が抜けてますね。
山野井本河野家譜ではありません。
山野井本「予章記」別所にあります。
東大史料編纂所は明治政府が肝いりで「大日本史料」編纂の大号令の許、全国の旧家・名家・寺社等に出向き伝来の古文書を筆写し、水戸光圀以来の大日本史編纂事業で、
後の空襲や災害、本家意識の欠如で貴重な古文書は喪失する中で原本ではないとはいえ
わが国一級の資料の宝庫です。小泉改革で予算を削られて維持管理がままならないと
ぼやいてはいますが。
明治30年に東大が山野井文書を筆写しその内容は山野井家々譜 1通、感状28通
となっています。このとき東大に貸し出したのは大柿の大原準平氏であり、いきさつ
はわかりませんが明治35年3月7日山野井源次郎氏が家譜を含む文書所有権争いで
広島の裁判所の判決で源次郎氏の所有が認められ、りっぱな家が2軒買えるくらいの
和解金を払って文書を取り戻しています。その判決書を元に東京帝国大学文科大学長
あてに先の謄写の山野井文書の真の所有者は準平ではなく私源次郎であるから所有者
の登録修正を願いたいと申しでている。しかるに東大史料編纂所は現在も準平蔵として
あるし、別資料で名義変更願いがあるとのみ公表している。
家譜1通目録がないので散逸したのですかね。珍しい例です。
昭和62年の貴方の問い合わせの東大の答えは山野井文書なら
明らかに間違っていますね。山野井本河野家譜なら元からありません。
手元の山野井文書はあまりよく読めませんが
@大内政弘 8月1日 応仁元年之乱の感状 能美若狭守代あて
A々政弘 7月2日 応仁元年感状 能美若狭守あて
B陶 弘詮 11月2日 永正6年書状 能美四郎あて
等々です。ほかに広中正長、大内義興、大内義隆、陶晴賢、大内義長
(村上)通康等の書状もあり。
通康のは能美島の安堵状ですから通康時代は通康の元で能美島を領地として
いたことになります。すぐ通康の領地は取り上げられてしまいますから能美島
の山野井は庄屋に格下げになってしまいます。
別の本は山野井家は2流あったとなってます。
6164 山野井家譜 usoneda 03/07 17:12
調べる目的を記してのお尋ねでしたから、正式には「山野井『予章記』別所」と言わねばならなかったのですね。この事知りませんでした。ありがとうございました。
今は、史料編纂所のHPから検索ができるので、自分も検索してみましたが、おっしゃるとおりですね。
東大に山野井本の写しを保管してもらいたいものです。
6166 いえいえ、 呑舟 03/07 19:23
いえいえ、「山野井『予章記』別所」という一連の名詞ではなく、東大ではなく別の
ところにあるという意味でした。
手元に山野井本予章記をもっていますがいわゆる『予章記』とは異なり内容も似ては
いますが順番がばらばらで、影浦勉先生が似て非なるものとして予章記研究史料からは
はずしています。
6168 勘違いすみません。 usoneda 03/07 23:26
あまり専門家ではないもので、あほなこといいましてすみません。
先生のお持ちの「山野井『予章記』の山野井家譜と5660のyama_no1p様が書かれた系譜は同じものでしょうか?
山野井清景は源八兵衛が始祖
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景親は左馬亮
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景真源兵衛尉
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真氏(直氏)源兵衛尉
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能美縫殿允仲次
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源兵衛重吉 毛利方、来島通康安堵状?
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景重 朝鮮従軍、帰農里正
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重久
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重次清兵衛
こんな感じかなどと思っていました。
6169 ちがいます 呑舟 03/08 00:16
まず先生は止めてください。単なる歴史好きのサラリーマンですから。
山野井本「予章記」は山野井家のことを書いたものではなく伊予河野家のことを書いた
写本のひとつが山野井家に伝わって保管されているものです。
よって山野井家の系譜のようなものはでてきません。
河野家とその周辺を研究する人にとって別写本の予章記と比較する上での本です。
山野井家の系譜は別に「山野井系譜」として広島県文書館にあります。
6171 すごいことになってますね yama_no1p 03/08 18:52
呑舟様お久しぶりです。
ネット環境整われたのですね!
usoneda様始めまして。
書き込みの文書ですが、すべてではないかもしれませんが叔父の所有となっています。
また、一部は九州大学にもあると記憶していますね。
百合子は私の祖母で、5、6年前に他界しました。
生きている間に色々と教えてもらえばよかったと思います。
話は変わりますが、能美の宝持寺を再建する事になりました。
もし、usoneda様今も能美にお住みであれば是非お力を貸していただければ嬉しく思います。
宝持寺は、山野井家が歴代総代を務めてきたお寺です。
1999年の豪雨で本堂もろとも倒壊し、現在に至っています。
本家総代と住職、住職の親族、団信徒、私で再建をする事になりました。
6172 お寺再建よかったですね。 呑舟 03/08 22:47
再建おめでとうございます。
これで先祖もほっとされていることでしょうね。
しかし山野井文書の所有権争いはすさまじかったみたいですね。
6177 山野井氏にお尋ねいたします。 usoneda 03/09 12:48
山野井さんも来られてうれしいです。これからもよろしくお願いいたします。
お尋ねしたいことがあります。
家譜を作成していて疑問点があります。
1.山野井氏の系図を完成したいのですが、前出の系図と私が間接的に史料から作りかけている系図が違っています。山野井家の系図に合わせたいので、山野井の祖の盛孝から重久までのお名前を使わせていただきたいのですが、よろしいでしょうか。ただ盛孝から秀清―清景(私の調べではこの清景源八兵衛が大原での山野井氏始祖となっています)までが分らないので、お教えいただけるとありがたいのですが。
2.他の河野家譜では、三並から熊武と身弓尺(ミサカ:高縄と同一人物か?)と分かれています。
また、高縄から高箕―勝海―久米丸―百里―という流れと、高縄―高野―三回田・阿次―門命(三韓出動)―伍賈―勝海という予陽河野盛衰記とがありますが、山ノ井ではどちらなのでしょうか、あるいはまったく別の系図になっているのでしょうか。
3.当家の家紋は「抱き沢潟」ですが、これは福島や浅野のそれに追随したものと思われます。山野井家の家紋をお教え下さい。
小早川の家来の浦氏=乃美氏の支配地の世羅郡に字曾根田が在ります。偶然でしょうか?不明です。
親類に熊谷直実の家臣の荒木氏の子孫がいて、感状などの文書をたくさん持っていましたが、広大に貸したところ、行方不明になっています。誰かが猫ばばしたのでしょうか。
この世界にも闇があるのだと思っています。
6180 感心しませんね。 呑舟 03/11 08:52
系図というものは安易に関係文書を繋ぎあわせるものではありません。
よく言えば創意工夫、悪くいえば後世の仮託と非難を受けます。
よほどしっかりした一次資料か、第三者資料(寺とか、中立的他家資料等)の裏付け
が必要です。
私も事実としての系図を作成するのが目的ですが、そもそもの資料(系図類)そのもの
が、当時としては問題にならなかったことが、現在の情報化社会では、矛盾点が多く
良く言えば記入者の錯誤、悪く言えば捏造的な記述が残ってしまいます。
系図は現代においては究極の個人情報ですので、万人が見ているインターネット上では
なく個人的に山野井氏と情報交換されるのがよろしいかと思います。
私も編纂系図は所有していますが、門外不出としています。
理由は現在ある家や現存氏名や外に出せないプライバシーの項目がたくさん記述されて
いるからです。
これがまた悩ましく、情報を得るには情報を公開(公衆に晒すと云う意味でなく、門外
に出すという事)する必要がある程度あり、不必要に出すとプライバシーにかかわる。
バランスをとりながらの作業です
6182 山野井系図 usoneda 03/11 10:43
少し語解されていると思われますので、言い訳をさせていただきます。
私の系図作成の目的は、子供らに、人類38万年の歴史の中で、約2万人のご先祖様がおられて、その一人ひとりが、いい加減な生き方をしてこなかったからこそ、現在の自分が在ることを自覚するようにと育ててきました。自分の人生を大切にしてもらいたいからです。
今回、能美鹿川の曾根田の祖先の墓を整備し、子らに托すために縁者を集めて、子らやご先祖様への見守りをお願いするために行くことになっています。そのためにかねてより、長年山の井本を探してきましたが、今日になるまでその機会に恵まれませんでした。広島の文書館でそれが可能になる事をお教えいただき、このすばらしい場を持っていただいている今城様に感謝するとともに、呑舟様にもお教えいただいていること感謝いたしております。
曾根田の系図は、山野井家より出ている関係上、山の井本に継ぎはぎするしかないことことをご理解下さい。私が里を離れている間、身内の事情で、関心のない他の者が引き継いでいたものですから、多くの資料が行方不明になり、私にはこの手段しかありません。
そもそも系図そのものには、適当な祖先に継ぎはぎして作られたものが多く、史料としての価値が疑わしいといわれているのですが、私の目的からすると歴史的価値は従であるということです。このこと歴史的研究者には邪道と受け取られるものと思いますが、私は私の価値観を人に押し付ける気はまったくありません。
山の井系として、あまくまで山の井本に従いたいのです。単に系図の名前だけを明確にしておきたいだけです、その他の現在の方に御迷惑をおかけするような情報は必要ではありません。
オープンになっている昔のご先祖の名前だけの情報だけを知りたいので、プライバシーを侵すことを意図はしておりません。
ただ、築山本などと予章記などとの食い違いが在り、山の井本とも食い違いが指摘されていることは、一応抑えておきたいとは思っています。
今回帰広までの時間がありませんでしたので、この場をお借りしましたが、今後は、時間をかけて行くしかないことなのでしたら、そのようにいたします。
ご迷惑をおかけしましたのでしたらお詫びいたします。済みませんでした。
6184 趣旨は理解いたしました。 呑舟 03/12 00:12
私はなにも迷惑を被っているわけではありませんから、ご安心ください。
公開されているのもについてはなんら問題はないと考えます。
宇曾根田さんと山野井さんが同族なのでしょう。
なら山野井さんとメルアドを聞いて直接相対で確認したほうがいいですよ、と
感じたからです。このブログは公開の場ですから。
貴方が投稿されてまる一日、山野井さんの返事がなかったものですから、投稿を
ためらっているのかなと勝手に想像したからです、山野井さんはレスポンスの
早い人ですので、見てなかったのかもしれませんが。
私の老婆心でした。
6189 すみません yama_no1p 03/12 15:45
返答が遅くなりました。
ここの所、ずーっと忙しく閲覧はさせていただいてましたがコメントが出来ませんでした。
呑舟様のおっしゃることはごもっともだと思います。
私も以前に先祖様の名前を公開していますが、悪用と言ってもいろいろあるかと思うのですが
流用もありえますね。
私の手元にある山野井氏家譜にはusoneda様のおっしゃる〔盛孝から重久〕はあります。
もちろん、その前後もあります。
この家譜は県の文書館で身分を証明し複写いただきました。
以前も、大君町の山野井さま〔兵庫県で開業医をされている〕が宝持寺にこられ
お墓をまとめる為に先祖を知りたいということでお話をしましたが、
決定打は出ませんでした。
河野氏のことは詳しくないのでなんとも言えません。
家紋ですが、家紋帳には無く、口で説明すれば、河野家の家紋が外郭のひし形の部分が面とりしてなくて、さらにそれに90度ずれ同じ正方形が重なっています。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kono_k.html
ここの下の方の右の紋に正方形が重なっています。
【家紋:左=折敷に縮み三文字/右=傍折敷に三文字】
当時の支配は大柿町誌によると、福島から山野井に変わったとありますね。
浅野藩が、1619年広島城に入城する際に能美の山野井家に寄り入ったと記録されています。
少し前のことですが、広島の茶道で上田流があり、そこで400年前の資料が出てき、
庭を復旧しようという動きの中、
現在まで山野井の庭〔荒れ果ててましたが〕そのときに使った高つくばいが上田家の庭にあります。
上田家は浅野藩の武家茶で、当時広島に入ってきました、
そんなこともあり、今年の初釜に招かれお大福茶をいただきました。
そのときに隣に座ったのが周防大内家の末裔の方でしてとても不思議な縁を感じましたね。
何が言いたいのか良くわからなくなりましたが、私がこちらのサイトにお邪魔し始めてからいろんなことが起きます。
きっと、ご先祖様が喜んでおられることと思っています。
先日も、墓所の一角の無縁様がグチャグチャになっていたので供養してきれいに整列しました。
もしよろしければ、今城様、遊行笑人様、呑船様、usoneda様とも個人的にやり取りをしたいのですがどんな方法があるでしょうか?
6192 能美鹿川 usoneda 03/12 23:26
お忙しいのに大変に申し訳ありませんでした。
先ず家紋の件ですが、やはり曾根田の家紋は福島の家紋に合わせたて変えたものと想像していましたが、当っていたと思い、納得いたしました。ありがとうございます。しかし組入角に三文字という紋は珍しいですね。とても助かりました、ありがとうございました。
実はこの週末鹿川に帰り、ご先祖様のはお墓を整備し、子らを含めた親族に、家系図などを示し、ご先祖様を大切にすること、一族が仲良くしてもらえるようにと会合をする予定なので、できれば、空欄のあるものでなく、空欄のない越智河野・山野井・曾根田の流れを見せて、みなの気持をまとめたいと考えていたので、できれば間に合わせかたかったのですが、世の中自分の思い通りにはならぬことは道理ですから、別の機会にしたいと思います。自分が帰りに文書館によってコピーをいただいて完成させることにします。
県立図書館で大昔にコピーしたものを見ていましたら、大柿町古文書古記録一覧に、山野井勲(旧能美)所蔵として、大永五年大内義興袖判感状、天文三年興実花押感状、天文十五年大内義隆袖判領地安堵状、弘治二年晴英袖判領地安堵状、永禄元年河野通康花押命名状、永禄六年通康花押領地安堵状、永禄十一年牛松花押感状などなどが見えます。
とりあえず今晩はこんなところで。
私のメールは、u_sonedaアットマークyahoo.co.jpです。メールアドレスを宣伝に拾われないようにアットマークをわざと仮名にしておきました。
今後の情報交換ができればうれしいです。
よろしくお願いいたします。
6405 ここまで yama_no1p 05/14 19:02
ネットでいろいろと検索していましたら
ここまで調べられている方がいらっしゃいました。
コピペですけど私が書くよりも早いかと思い転記いたします。
ご存知のことかもしれませんが、復習と言う意味で参考になります。
■能美の山野井 能美島(現:江田島市)
■【『能美島志』道澤蔵本】山野井道澤
■『大柿町誌』によると、西暦808年に、建立された宝持寺を1555年に、山野井の菩提所として再建した。
■山野井家は旧:佐伯郡大柿町大原(現:江田島市大柿町)
■1365年に伊予の河野通堯氏が九州に逃れる際、能美の山野井源兵衛厚くこれ(徒属5百余騎とともに)を遇す。
■山野井は、以前能美氏を名乗っていたとか、能美城の山野井氏だと。
■山野井文書は九州大学に明治22年に筆写され保管されています。
■原本蔵者は安芸国佐伯郡大柿村 山野井順平氏
■山野井順平(準平)は、道澤の長男
■大内政弘感状以下28通。塩飽島共有本、豊臣秀吉朱印状 塩飽検地の事など。
■山野井源兵衛宅で生まれた大野直房は慶長5年(1600)13歳で村上元吉らと三津が浜の戦いに親子ともに出陣し元吉を失っています。
■村上家家老大野直政が拝領
■山野井は、山井と言われていたときもあったそうです。
■山井と書いて、やまのいだったのかもしれませんね。
■能島村上が旧来島領の江田島 能美島を領したのは天正13年(1585)で翌年には河野通直も大野直昌等と竹原に落去し、甥の直政は山野井源兵衛宅に居候していたのではないかと思われる。
■越智河野の盛孝からでた山野井氏なら河野一族と云うことになります。
■「芸藩通志佐伯郡故家大原村山野井氏」の条に「鹿川村に同族あり。其祖八大夫朝鮮の役に従い、帰朝の後別家す。其の家、朝鮮飯器を蔵す。」
■大竹市和田文書の「東西能美島村々雑記」のなかに「旧家 先祖 山ノ井八大夫ト申者朝鮮より持帰リ 黒土はんどう1つ」
■山野井家は来島通康に保証される形で厳島の戦いで陶方についた非を毛利氏に許された。
■山野井は、浅野氏の広島入りをもって苗字帯刀を失い庄屋となったらしい。
■三嶋大祝家越知分派家譜には親経の(兄弟かと)並ぶ盛孝殿の家系の諸氏の中に、遠藤・垣生・井門・浅見・宮崎・冨岡・玉井・高尾・難波・志津川・江田嶋・山野井が分流と記されております。
■「能嶋家来分限帳」「世倅 是水儀者 能美嶋 山井源兵衛 与申、庄屋所江入歩ニ参 逗留之生申候」とありこれは天正16年(1588)のことですのでこの時期は山野井は山井を名乗り能美嶋の庄屋であったことになります。
■大野直政(変名 友田次兵衛 兵庫助 久万王 母曽根信孝の女)屋代島大野家初代 大野隆直の嫡男・能島家家老・姫路にて秀吉の誘いを断ったため村上武吉とともに秀吉の恨みをかい、毛利・小早川の取り成しで切腹断絶は免れた。よって名前を大野から友田に変名した。
■大野直房(三郎右衛門・勝右衛門・落髪後 是水) 大野直政嫡男 天正16年能美島山井源兵衛宅で誕生。
■山野井の祖は盛孝 初代は孝霊天皇の二男、彦狭島命。
■元和5年に海路から広島に入る浅野長晟を出迎える。その頃、武を捨て農に帰す。
■山野井喜七、竹中喜六、山西家、上本家、大段家、山田家が1700年ごろ分家したらしいです。
■能美城<大柿町史>
大原邑にあり、芸備故城史に曰く、某山伝え言う、河野親孝の裔山野井源八兵衛清景、左馬亮景親、源兵衛尉景眞凡そ三世此に居す。源兵衛尉真氏に至り、去つて庶人となると云う。
■予章記に謂う、貞治三年夏四月、細川頼之予州高縄城を攻む、河野通堯敗れて官軍と九州に在らんと欲し、芸州能美に走る。山野井源兵衛厚く之を遇し、通堯其属徒五百余騎と能美に陳(陣)す。
■大原村山野井氏 先祖山野井清景は、伊予国河野秀清が子なり、此国に来り、始て能美島を開き、松尾山の城に居る。四世直氏(※真ではない)応永の比山城を毀て、別に第宅を構え大原村に居る。代十世景重、朝鮮の役に従ふ、十一世重久より農間に降り里正となる。
■『芸藩通史』の「故家」 元和中藩君入封の日、船にて迎奉り、貝蛤、蜜柑など進らす、今に至り、君公東行、船路なれば、此物を奉るを例とす。祖清景より、今源五郎まで、凡廿世、家に足利将軍御教書、大内家感謝状等を蔵す。鹿川村に同族あり。其祖八大夫、朝鮮の役に従ひ、帰朝の後別家す。其家、朝鮮飯器を蔵す。
■南北朝以前から山野井氏は能美を支配していたのでしょう
■「祖先は山野井氏より出て、小字曾根田の地を受けて現在の地に居住すること十五代農家なり。寛永十五年の地主名簿に記載あり。鹿川の村社の「将軍社」の土地および中郷付近(現曾根田の屋敷があるところの字名、将軍社は屋敷の直ぐ後ろ)は皆山野井家の所有なるが、或夜一の井戸に光るもの在り毎晩現れる。良く熟視すればそこに御神体在り。、上の山に神社を作り祭る。「天大将軍社」と言う。
■大柿町古文書古記録一覧に、山野井勲(旧能美)所蔵として、大永五年大内義興袖判感状、天文三年興実花押感状、天文十五年大内義隆袖判領地安堵状、弘治二年晴英袖判領地安堵状、永禄元年河野通康花押命名状、永禄六年通康花押領地安堵状、永禄十一年牛松花押感状などなどが見えます。
6407 古の面影を偲ぶ御心! 海遊庵主 05/15 09:23
ご先祖の足跡を辿る想いは真に尊ぶ子孫の貴き宝(供養・努め・生甲斐)かと。山野井さまの湯築城への縁あっての来訪は河野通清の先代親清・先々の親経の時代への誘いを生み、一連の詳しいご投稿に彷彿として・・越智姓一族の家累のご縁の深さを感じております。
今までは、河野氏の出自や史実を語るには通清から通信の平治・源平の時代を初舞台に設定するのが通常でしたが、山野井氏の御出ましで、湯築も賑わい、益々盛んに伊予の越智姓御子孫の皆様が集う城として存在を期待しております。
6408 #6405ここまで・・・ 呑舟 05/15 09:53
#6405 他のサイトの山野井関係の羅列はほとんど「談話室ゆづき」からの転載ですね。
内16項目は私(呑舟)のコメントですね。
ネットですから別に転載されてもかまわないのですが、転載されたのを見た人は事実かどうか証明されていないことまで、事実と誤認しかねない典型的な例ですね。
出典もしくは裁定サイト名ぐらい明示しないとまずいサイトですね。
特に私の「大野家」関係は公表されてないオリジナル系図からのコメントですから
私以外から今のところ、ネットに流れることのない内容です。
まあ、お互い気をつけながら交流を深めましょう。転載した「鉄五郎」さんも見てると
思いますから、お出ましください。
6409 訂正 呑舟 05/15 10:16
裁定サイト→最低サイト
6416 Re:6408 出典を明記するのは常識 今城 05/15 23:00
文献や資料を引用したり紹介する場合には、出典を明記するのは常識です。ネットでも他のサイトから引用、或いは紹介する際には、サイト名やURLを明記するのは当たり前のことです。出典を明記せずに引用或いは転載した場合、マナー違反であるばかりでなく、盗作と看做されることも有り得ます。当「談話室ゆづき」から無断で転載するとは、本当に最低のサイトですね。一度てみたいので、サイト名とURLを教えて下さい。
人の振り見て我が振り直せ。我々も気を付けたいと思います。
6418 転載サイトは 呑舟 05/16 10:26
http://noburin.moo.jp/sanagi/sub7.htm
「佐柳島・郷土史掲示版」ですね。
あまり悪気がある管理者とは思いませんが少し常識に欠けてますね。
6419 佐柳島・郷土史掲示版見ました 今城 05/16 12:38
見ました。「佐柳島」サイトの管理人「のぶりん」さんも投稿者の「鐵五郎」さんも、仰る通り悪意は感じられませんが、出典を明記すると言う意識を全然持っていませんね。
談話室ゆづきの管理人として、先方に警告を出すのが本当でしょうが、どうしようか迷っています。どうしましょうか。
話は変わりますが、当スレッドは長くなり過ぎた感がありますので、続く話は「山野井家について(2)」を立てた方が宜しいかと思います。宜しく。
6420 そうですね・・・ 呑舟 05/16 13:27
警告するほどのこともないでしょう。
6421 では止めておきます 今城 05/16 13:37
主たる発言者のご意見に従い、警告は見合わせます。時々様子はチェックします。
このスレッドはこれで打ち止めとし、続きがあれば新たなスレッドを起こして下さい。
5492 先週の飫肥城下探訪の旅は! 遊行笑人 03/10 01:42
日向之国・伊東氏の城下町を探訪・遊行の旅に出向いておりました。鎌倉・・・戦国・・・大友氏・一条氏の縁戚・関東武士の出自に、河野氏の面影を探しに参っておりました。
矢張り・日向・豊後と伊予との関係は、鎌倉時代に遡る深き古き縁の面影が漂って参りました。
この祭に訪れた城内の四半的と云う、弓矢の射的場にて、生まれて初めての矢を標的に向かって師範の教えを忠実に守って十数本の矢を射ましたところ、初めてにしては一本を除き、総ての矢先は見事標的を射抜き、ギヤリーの観光客の喝采を受け・・・笑人もツイツイ調子に乗って、我こそは、鎌倉時代・弓の名手・河野通時の子孫成りと云ったか云わぬかは別として、先祖のDNAを継ぐ気分を満喫して帰任しました。皆様も是非今話題にの東国原知事と河野(こうの)氏(広島毛利氏関係の出自か?)が副知事になられた何かと縁ある日向之国の河野(かわの)氏をお訪ね下され度ご案内挿せて戴きます。大友・細川・天主教・稲葉・河野氏の由縁が深き土地かと!。
5495 再び 今城さんへ 呑舟 03/11 21:33
以前 今城氏に一条家ゆかりの今城さんですかと質問したことがありますが、家紋は同じとの話でしたが、今に伝わる家紋はなんでしたけ?
一条家ゆかりの今城氏はいろんな家紋を使われてますが、越智河野系土居姓今城家ではありませんか?
一条家から姫様と千両と刀と丸の内に五三桐の家紋を賜ったことになってますが。
土居阿波守家通が後 今城伊豆守清興と名を改め、土佐中村上谷城主 家敬の時、城の
名の今城を採り 今城家の祖となったとありますが。
なら通成 通増から分かれてますから河野一族なんですね?
これもまた笑人先生のコメントが欲しいですね。
5496 我が家の家紋 今城 03/11 22:50
丸に五三の桐です。この紋をいつから使っていたのか、どうしてこの紋を使ったのか、全く判らなかったので、土佐の今城家の話に驚きました。
戦国期は西園寺家の武将の一人で、金山城主でした。土居清良のことを記した清良記では、土居と今城は紀州鈴木党の出で、同族と伝えておりますが、軍紀物のこととて事実かどうか判らず、全く手懸りがありません。系図があったのですが、水害(多分鉄砲水)で失われました。父が過去帳を調べたのですが、六代前以降しか判りませんでした。
5497 やっとの想い・・ 遊行笑人 03/11 23:29
当初から、なかなか・・先に進まず、今城家の本姓はアレや此れやで難儀しておりましたが?
やっぱり・・・伊予と土佐の西南四国のハーフANDハーフでしたか!
此れで糸口が解けそうですね!・・・安心して夜が寝れる気がしてきましたよ(我が家と相似)
土居宗珊もお歓びかと?・・・一条家との繋がりは御座ったのですかな?・・ご本人は極めて神妙なご気分ではなかろうかと?!。
笑人も只今『讃岐攻め』の真っ最中で・恰も細川定禅殿(弟は皇海土佐の細川殿)の指揮下で出城築城の為小豆島に出向く毎日です。呑舟先師のお誘いにも誠に恐縮の義・珍重に存知奉り候。
5498 断定するのはまだ早い 今城 03/12 00:02
土佐今城家から西園寺氏配下の三間へ移ったことを示す史料が見つからないと、断定はできません。三間の土居・今城は実質的に対土佐の最前線で、一条氏とも長曽我部氏とも度々戦っています。この点も解明しないと、何とも言えませんね。
5499 一部訂正です 呑舟 03/12 08:19
一条家からもらったのは、千両ではなく 知行千俵でした。
一条家と仲が悪くなったのは家敬の父 土居家忠後の宗算が代替わりした一条康政が贅沢三昧をやめないので諫言したところ、激怒され、かつ部下の讒言もあり逆に攻められたからかと思われます。
宗算没後、子息、今城安房守(阿波ではありませんでした)家敬は長曾我部元親とは敢えて
構えず籠城していた模様。
天正13年の秀吉による四国征伐のおり、下城とあります。
元親公より下山郷中半邑北ノ川位石ケ城を与えられ、境の番城は江川、半家、川崎、大宮
下家地等を守っています。
家敬の嫡子、今城藤太夫清重の代に下山郷藤川村に引越した。
慶長5年山内一豊入国により翌6年今城藤太夫病身故、弟彦右衛門之に居る。
岩間・第生・藤ノ川の3ケ村の庄屋となる。
三間は岩間と同じではないですかね?
5501 三間は宇和島市 今城 03/12 11:45
三間は高知県でなく、愛媛県です。先年の町村合併で宇和島市に併合されました。土居清良の大森城、今城の金山城は、土佐から伊豫への四万十川沿いの侵攻ルートに位置しています。この二つの城と大森城の支城(名は岡本城だったか?)は相互に見通しの利く配置で、土佐勢が攻めて来たときには、連携プレイで戦ったと想像されます。
「越智今城家系図」をざっと見たに過ぎませんが、家紋以外私どもとの接点は見当らないようです。
一つお尋ねしたいのですが、土佐に「有馬」という地名はありますか。紀州にあるとメールを頂戴したことがありますが、見つかりませんでした。三間にはありません。
5502 成妙村でしたね 呑舟 03/12 12:23
そうですか、越智今城家と一条家臣土居今城家とも接点は乏しいですか。
一条家も大内に養子を出したり、宇都宮の女や、元親の女を嫁にしたり、遠く豊後の大友を頼ったり、まさに戦国時代は敵も味方も婚姻関係だらけで、親戚だからという安心感はなかったでしょうね。
その中の流れに埋もれているのかもしれませんね。
有馬についてはよくわかりません。
四国は実はとんと疎いのです。このメールも栃木県から発信しています。
5503 有馬について 今城 03/12 16:04
私の先祖は伊豫の西園寺氏配下で、土佐との関係も、越智氏・河野氏との関係も、具体的な手懸りは全くありません。史料が無さ過ぎるのが難点です。今、南予河野氏文書の解読が始まっていますので、そこから何か出て来れば嬉しいのですが、どうなることやら。
私は今まで、西園寺配下の土居・今城氏は、越智河野氏の庶流土居氏とは別系統だと考えていました。しかし、家紋が一致する点、無視は出来ませんし、始めて遭遇する手懸りですので、更に補強する資料が発見されることを願っております。
私どもの先祖は有馬殿と呼ばれていたらしいのですが、三間やその近辺に有馬という地名は昔も今も無く、どこのことか不明とされています。これが見つかると、有力な手懸りとなるでしょう。
5505 有馬氏ですか 呑舟 03/12 20:47
今後気をつけて見ておきましょう。
私は土居・今城の中に隠れてる気がしてなりません。
釣り仲間のお祭りした糸をといていくみたいですね。
5508 有馬は明間では? 呑舟 03/15 20:16
河野分限帳に人名を列挙したなかに、土居式部大輔清良等とともに 御庄領主として
「今城左衛門尉能充 有馬城主 手勢二十騎
家臣 光任備後守義貞、武功高き人也 以上」
とありますが、今城能信 金山城ではありませんが、同族ではありませんか。
有馬は城の名前みたいですね、地図で三間近郊の有馬を探しましたが見つけることが
できませんでした。
素人考えで目星をつけると有馬(アリマ)が隣の宇和町明間(アケマ)に変化して伝えられているのではないかもと。
それと教えて頂けませんか?
御庄領主とはなんですか?
土居式部大輔清良は河野分限帳にも「大野家文書」旗下の欄にも
宇和三間男作 大森城主 土居式部として登場しますが、当時の伊予は直属の旗下と
陪臣の旗下は分ける習慣はなかったのでしょうか?
5511 さて 呑舟 03/16 22:47
続けて追記すると時間が変るだけなんですね
5512 御荘領主は勧修寺氏 今城 03/17 00:17
御荘とは地名で、宇和島からずっと南に下った所です。一番南が西海町、その北が御荘町、その東が城辺町です。(町村合併で愛南町に入りました。)
御荘殿と呼ばれたのは勧修寺氏で、本城は城辺城だったようですので、この一帯を領していたのでしょう。
河野分限禄に
>「今城左衛門尉能充 有馬城主 手勢二十騎
> 家臣 光任備後守義貞・・・」
と記されているのは知っていましたが、そこに今城左衛門尉能充が御荘領主と書いてありますか。ちょっと考え難いですね。また、御荘に有馬城があれば、地元で誰かが知っているでしょう。「伊豫の古城跡」にも有馬城は無く、有馬とはどこか不明としか聞いたことがありません。
明間は宇和町で、御荘とは離れています。三間より北です。
土居清良(大森城主)も今城能親(金山城主)も共に西園寺15将(或いは16将)の一人で、西園寺氏を旗頭とする国人領主と考えています。今城系図ははっきりしませんが、能充 - 能親 - 能信 - 能興 と続くと見ております。
能親は今城当主の座を能信に譲った後、金山城の西北にある岩倉城に移り、戦に際しては金山城と連携して戦ったようです。岩倉城は先年発掘が行なわれ、かなりの規模であることが判りました。
5513 なるほど、わかりました 呑舟 03/17 01:32
出所は長山源男氏の伊予史料叢書第一集でしたが、レジュメの見方を間違っていたようです。勧修寺基詮の前に御庄領主と小題風にあったものですから。
もっと深堀が必要ですね。
種を明かせば簡単なトリックのような気がしてならない。
土居清良を河野グループに入れて土居の友達の今城をハネにすることもなかろうに。
河野家から大野家から一条家から長曾我部からもちろん土居家から網を絞っていけば
分かるのでしょうね。
史料がないだけである意味では狭い範囲ですね。
さて、もつれた蜘蛛の糸の修復作業に入りましょう。
全体像が見えてくるかも・・・・・
5516 土居氏の分布 今城 03/17 21:23
南予の土居氏は河野庶流の土居氏とは別の系統のように感じています。
河野系土居氏は、戦国期に小田町に展開しています。長曽我部対策だったようです。現在美川村大川の土居家はその末裔です。野村町に2軒土居家がありますが、その両家も同じ系統と思われます。これらが河野系土居氏の南限のようです。
南予、即ち西園寺氏配下の土居氏が河野系であることを示す証拠が現時点では見つかっていないようで、どこに繋がるのか今後の研究に期待するしか有りません。
私は更に南予の土居氏も二つの系統があるのではないかと感じています。秀吉に降伏後、土居氏も今城氏も下野し、清良ほか一部は三間に残りましたが、土居一族の多くは現宇和島市の高満に、今城一族はその北の高串に移り住んだようです。ところが現在の宇和島市には、この地区以外に土居の苗字を持つ人が非常に多く、對人口比を取ると松山市の倍程になります。今城家は私の知る限りでは高串に僅かに残るだけで、それと比べても土居家の数は清良の子孫としては多すぎる感があります。この事実から宇和島市には清良とは別の系統土居家があるのではないかと思う理由です。まあ、私の勘ですので、あてにはなりませんが。
このような次第で、南予の土居・今城家の探索はまだ闇の中で、将来光が見えてくるかどうか、難儀な話です。
5517 混在してるのではないですかね? 呑舟 03/17 23:15
金山城 成妙村 戸雁に在り、今城肥前守能親(一に能信)の古墟にて成妙郷の内に於いて高四千七百六十一石八斗九升九合を知行し有間殿と称して西園寺の旗本に属し戦功多し有間は舊領の称なり能親は土居の族得能氏にて得能弾正忠能宗七代の後にして右馬介能久の子なり嫡男を兵庫頭能興と云う、
これも中味は河野系得能とも違うのでしょうか?
大野家は河野の戦国時代は河野の家臣でしたから大野の支城の配置から入り混じりながらも宇和島近辺まで勢力を伸ばしていたと思われるのですが?
5518 河野氏に繋がる線見えず 今城 03/19 13:39
順序は逆になりますが、先ず大野氏の件。大野氏の発祥の地は菅田と言われ、後に小田から久万の方に展開していますが、宇和島というか西園寺氏配下に大野氏は居ません。宇和島まで勢力を伸ばしたら、西園寺配下の武将との争いが記録に残るはずです。また大野氏は河野氏とは独立の勢力で、河野氏の家臣になったのは、最後の当主となった直昌からでしょう。直昌の弟直之は河野氏と戦い、敗れて兄直昌に預けられましたが土佐に逃れ、暫く後に長曽我部氏を後ろ盾として大洲に戻って河野氏と戦いましたが、また敗れて家臣に殺されたようです。土佐から大洲に戻るには、土居氏が展開していた小田を通るか、西園寺氏の所領を通るしかありません。前者は考え難いので、ひょっとすると西園寺氏配下の誰かが長曽我部氏と通じていたのではないかと想像します。この推測が当っていたとしても大野氏自身が西園寺氏の勢力圏に進出した形跡は見当たりません。
今ひとつ、戦国末期に河野氏と西園寺氏は友好関係にありましたから、河野氏の家臣が西園寺氏の所領を侵すことも考えられません。
なお、菅田には城跡が発見されていないそうで、大野氏が最初ここに居たと言うのも疑問視されているようです。
土居氏・今城氏の祖は紀州鈴木党の武士で、河野通信の従兄弟に当り、自分は義経について奥州に下る際に子供を通信を頼って伊豫に逃し、通信は兄弟の器量を認めて土居と得能の名を与えたと言う話もあります。その時期に得能氏も土居氏もまだ成立していませんので、これは箔付けのために後世に作られた話でしょう。ただ鈴木党から出たと言う説は無視できないものがあるようです。清良記にも得能弾正忠能宗云々の話も出て来ますが、諸説の真偽を確かめるには、確実な一次史料の発見を待つしかありません。
なお、お書きになった「金山城・・・」の記述は河野分限録に出ているのでしょうか。この文中能親は能久の子とありますが、能充の子が正しいのではないかと思います。しかしこれも信頼できる史料がないので、なんとも言えません。能親(一に能信)とありますが、能親 − 能信 − 能興 と続いたはずで、能親と能信の区別がつかないのは、後世に信頼出来る史料のないままに書かれたことを如実に示すものと思います。
いずれにしましても、土居・今城が河野氏に繋がることを示す証拠は現時点では皆無でしょう。清良記を見ますと、武士の原型である地域の自衛組織のリーダー、その地域の親分と言う雰囲気を感じ、やはりその地の国人領主だったのではないかと思っております。判らないからこそ、色々と推理を楽しめると言うもので、これもまた楽しからずやです。
5520 やはりそうですか? 呑舟 03/19 16:44
「大野家聞書」に大野直昌旗下として
宇和松丸 土州境 川原倒城 武市近江
同 土佐境 森城 荒川大学
同 三間男作 大森城 土居式部
同 君ケ城 吉澤善兵衛
亀ケ城 原 外記
日振城 樋土
とあったものだからこれらが宇和島近辺かなと思いまして。
大野家聞書が宝暦8年の謄写ですからとうてい一次資料とはなりえませんが。
伊予における大野の最初の足跡は喜多郡粟津郷八多喜となってますが。
現在の八多喜の祇園神社は遠祖大伴吉良喜が天慶二年に純友の乱の平定の好方に協力す
るため
京都を出るとき祇園社(八坂神社)の分霊を奉持し粟津の森に社殿を造営した
と聞いてますが。
どちらにしろどこまで本当か嘘か・・・・・
5521 大野氏の勢力圏はどこまで? 今城 03/19 19:18
大森城・土居式部は西園寺氏の旗本であり、大野直昌の配下ではありません。他の5人の名は知りませんが、同じじゃないかと思います。城の名も知りませんが、日振城とは純友の乱で有名な日振島でしょうか。そうであるなら、宇和島の沖にあり、大野氏の勢力が及ぶ場所ではありません。
いずれにせよ、編纂された資料は一次史料で確認されないと、真に受けるわけに行きませんね。
大野氏に関する私の知識は鳥坂山合戦以後ですので、大野氏の最初の足跡が喜多郡粟津郷八多喜という方が本当かも知れません。
6174 土居記 呑舟 03/09 00:39
近頃今城さん出てきませんね。
そこで今城家と関係あるかどうか、紀州鈴木党土居家について。
「土居は鈴木党なり、祖を重氏と云う 野海大臣重尊の後胤、紀州牟婁郡藤城主
鈴木三郎重家、高倉天皇の御宇 治承四年軍功により奥州平泉郡を賜りたり、後鳥羽
院の御宇文治四年終に落城す。義経方の武士、頼朝公に押えられ有れども無きが如し
男子三人ありしが二人太郎と千代松と云う 伊予国主河野四郎通信に託し建久戌年
五月 (中略)千代松は紀州牟婁郡土居の地名を採り土居太郎清行と改名(中略)
その後伊豆守清宗高名あり、西園寺真光公の肝煎なり (後略)
宗清 兵衛之尉
宝治元年四月八日生
得能家へ養子後ニ今城兵庫守能円ト云フ
女 亀 天文九年十二月廿六日生
今城兵庫■■ 」
土居清良系と思われるがこの今城さんとも違いますか?
6209 土居・今城の祖は? 今城 03/16 18:47
詰まらぬことに手を取られ、長いことご無沙汰致しました。済みません。
さて、#6174の紀州鈴木党土居家に関する記述の出典は何でしょうか。「清良記」にも土居、今城の祖に関し、似ていますが微妙に違う記述があります。要点を記します。
『土居氏は鈴木党にて実名は重氏なり。
・・・・
鈴木氏は紀伊熊野の名族。本姓は穂積。その祖は重基。二十六世の孫を重家、重清と言う。二人とも義経に従って戦功をたてた。
・・・・
重家、奥州下りの心ざし深くして、世間の行後を案じつづけ、今はかくとや思われけん、三人の若の有りしに、太郎千代松殿を文治五年己酉二月はじめに、伊予河野四郎越智通信を頼みあずけ下されける。この通信も、同国新井の紀四郎近清も、重家の従弟なる故なり。』
ここで、三人の若のうち、「太郎」と「千代松」ではなく、嫡男と思われる「太郎千代松」を通信を頼って伊予に落としたと記しています。弟二人は後に伊予に落ち延びたと書かれています。
文中に出て来る「同国新井の紀四郎近清」がはっきりしません。文の脈絡から見ますと、同国とは通信と同国、即ち伊予と思われます。しかし伊予ですと新井でなく新居でなければおかしく、新居郡に紀氏がいたのか、確認が必要です。そこで「紀四郎近清」で検索しますと、「伊勢住人二井紀四郎近清」と「伊予住人仁井紀四郎親清」が見つかりました。伊勢の紀四郎近清は那須與一と矢較べをしたとありますので、同時代の人物であることは間違いありません。伊予の紀四郎親清は未確認です。このような次第で紀四郎近清をまだ特定できていません。通信と近清の母親の出自が判ればはっきりするでしょう。
続いて、
『さて太郎は、本名紀州牟婁の郡土居を用いて土居太郎清行と名乗られける。』
と姓の由来について、紀州牟婁郡の土居を取ったと述べています。これは呑舟さんの記事と一致しています。
このあと、
『太郎清行の弟二人ありしが、清行を頼り伊予へ下り、まず清行すなわち徳能の家に
居おわしまして、母方の名字を取り、徳能の三郎能行とぞ名乗りける。』
と記し、清行の弟が徳能を名乗った由来を述べています。ここでは弟二人はあとから来たと述べられており、呑舟さん紹介の記述と違っています。
徳能はその後今城に変わるのですが、その理由は判りません。
以上の記述は正しいのかどうか、これを証明する一次史料が出てこないと、何とも言えません。奇妙なのは通信を頼って伊予に来たのに、西園寺氏配下の三間の大森城・金山城の城主になったことです。通信が太郎千代松に所領を与えたと記されていますが、それなら河野氏配下の場所の筈です。このような疑問点が明確にならないと、信用するわけにはまいりません。
牟婁郡の正確な範囲はお判りでしょうか。牟婁を地図でしらべますと、和歌山県と三重県にありますので、昔の牟婁郡とは両県にまたがった紀伊半島南部の広い地域だったのではないかと推測しますが、如何でしょうか。その牟婁郡の「土居」や「藤城」の場所はどこか、まだ見つかりません。ご存知でしたら教えて下さい。また「有馬」と言う地名があると、今城氏が有馬殿と呼ばれていたことと併せて、紀州の出と言う話が真実味を帯びて来ます。
「清良記」は軍記ものですので、必ずしも信用出来ず、と言って他に資料が無く、ほとほと困ります。
6212 土居記 呑舟 03/17 00:53
出典は伊予史談会蔵の「土井記」の抜粋ですが。
もちろんもう目を通されていると思ったものですから。
6216 Re:土居記 今城 03/17 18:13
伊予史談会に入っておりませんので、見ておりません。
ご教示有難う御座います。
所でタイトルは「土居記」、本文には「土井記」となっていますが、
正しいのは「土居記」と推測します。いかがでしょうか。
これは誰が、いつ頃書いたものですか。
6217 間違えました 呑舟 03/18 01:51
間違いです土居記です。
土居家譜か土居系図か土居文書の一部だと思います。
誰が書いたのを伊予史談会が転写したのか分かりませんが系図形式で明治まで
続いています。子孫のだれかが書き残したのでしょうね。
「土居ハ鈴木党ナリ祖を重氏ト云フ 野海大臣重尊ノ後胤 紀州牟婁郡藤崎城主鈴木三郎重家 高倉天皇御宇 治承四年軍功ニヨリ奥州平泉郡ヲ賜リタリ 後鳥羽院御宇 文治四年終ニ藤城ヲ義経方の武士頼朝公ニ押ヘラレ有レドモ無キガ如シ
男子三人有シガ二人太郎ト千代松トヲ伊予国主河野四郎通信ニ託シ 建久戌年五月重家
ニハ奥州ニテ逝去 太郎千代松ハ河野家ニ養育 紀州牟婁郡土居ノ地名ヲ採リ土居太郎清行ト改名 二男千代松は得能三郎得行ト称ス
清行ヨリ七代備中守清時ハ詩歌ノ道ニ長ズ
元弘建武ノ頃 伊予国ニ在リテハ河野殿ヲ始メ土居得能一筋二後醍醐天皇ニ御味方仕リ
両度迄勅使下サレ御綸旨ヲ三度頂戴ス
其後伊豆守清宗高名有リ西園寺真光公ノ肝煎ナリ、清宗三男三郎清晴ハ志摩守ニ任ジ
天正二十年上洛シテ大将軍義輝公ニ拝謁、高祖清行ヨリ土居式部少輔清良マデ十三代ノ
間連綿トシテ祖先ノ祭絶エタルナシ、其間三百九十九年文治五年ヨリ天正十五年迄
廔軍功アリ、中ニモ清良ノ代、最モ軍功多シ 四国ニ於テハ土佐国長曽我部元親 豊後ノ
兵ヲ引率シ攻メ寄ス、土井氏大ニ防戦一度モ吾陣ニ大ナル不覚ヲ取リタルハナシ
天正十五年十月宇和島三間ノ庄 土居大森城ヲ立退キ土居村ニ住居ス」
あとは初代から二十二代土居兵三郎直重(明治8年卒)までの系図である。
文久2年生まれの土居健三郎清経の手になるものか?
筆書きの写本を見ながらなので字に誤りがあるかも知れませんが浅学ゆえ御容赦を!
6222 Re:Re:土居記 今城 03/18 16:17
お手数を掛けました。詳しくご教示頂き、有難うございます。
拝見して錯乱が多いと感じました。伝承や他の書き物から取ったために生じたのでしょ
う。おかしい点を拾ってみます。
> 男子三人有シガ二人太郎ト千代松トヲ伊予国主河野四郎通信ニ託シ・・・
> 太郎千代松ハ河野家ニ養育 紀州牟婁郡土居ノ地名ヲ採リ土居太郎清行ト改名
> 二男千代松は得能三郎得行ト称ス
この文からは、長男が太郎千代松、二男は千代松となります。奇妙です。これは清良記
の記述の方が筋が通っています。
今城氏は名前に「能」を代々使っており、この点、清良記の「徳能三郎能行」の方が抵抗
感がありません。
但し、清良記で「得能」でなく「徳能」と記されている点に疑問を感じます。河野一族で
は「土居」「得能」家は、河野宗家に次ぐ家格で、伊予の名門ですが、通信の時代にはま
だ成立していません。それなのに、三間の土居・今城(元は徳能だったと言う)を河野氏
に繋がる家筋に見せようとして字を間違えたように思います。そうだとするなら、これは
後世のでっち上げであることを示すものでしょう。何で見たのか忘れましたが、通信が二
人の兄弟に、土居と得能の姓を与えたと書いてありました。時期は土居氏・得能氏が成立
する前ですから、完全な箔付けですね。
> 元弘建武ノ頃 伊予国ニ在リテハ河野殿ヲ始メ土居得能一筋二後醍醐天皇ニ御味方仕リ
> 両度迄勅使下サレ御綸旨ヲ三度頂戴ス
この一文は二つの誤りがあります。河野氏庶流の土居・得能氏は「後醍醐天皇の御味方
仕り」は正しく、大きな恩賞を貰っていますが、河野氏は鎌倉幕府方、後に北朝方に組み
しましたから、後醍醐天皇方ではありません。ですから「河野殿を始め」は間違いです。
もう一つ、この一文には後醍醐天皇に味方して功績があったのはどこの土居・得能氏か書
いてなく、三間の土居・得能氏と錯覚させるような書き方になっています。意図的にそう
したのか、書いた本人が三間の土居・得能氏の事と信じていたのかは判りませんが、土居
記の信頼度を疑わせる記述です。
以上のような次第で、土居・今城に関する信頼できる資料が無く、お手上げです。決め
手は有馬の場所で、もし紀州牟婁郡にあれば有力な手懸りとなるでしょう。私の勘に過ぎ
ませんが、土居・今城のルーツとして紀州が強く匂います。
6225 なるほど 呑舟 03/19 07:01
なるほどそうですか、お役に立てませんでしたね。
どの土居家か分かりませんが「伊予史談会」が採取し蔵本としてる所をみると
いまも我が家のルーツと固く信じている家があるのでしょうね。
私が調べている九万大野家も江戸中期以降書かれたものは虚実混在し、虚を取り除く
のが大変です。検証本として河野家譜や予章記等と比較していますが、こちらも例に
漏れず虚実混在し魑魅魍魎の世界となり、その他の史料と検証するとますます混乱する。これらはどこかの段階で虚が混じり、その記述を底本として派生してきた結果かな
と思います。
牟婁の有馬を探してみましょうね。
なお「得能三郎得行」は写本を見直しますと「得能三郎能行」でした。
私もまだまだレベルが低い。
6227 ありましたよ。 呑舟 03/19 08:59
南牟婁有馬に起こる「有馬氏」が。熊野ですから三重県ですね。
牟婁は新宮川を境に現在の和歌山県側と三重県側にわかれているみたいです。
鎌倉から室町時代にかけ、熊野市、南牟婁郡域では、有馬に本拠をおく有馬氏、鵜殿 (今の鵜殿村) に水軍を擁した鵜殿氏、尾呂志 (今の御浜町上野 「うわの」と読みます) の尾呂志氏、小栗須 (今の紀和町) の入鹿氏などが割拠していました。
入鹿氏
入鹿氏は室町時代の初め頃 (14世紀の中頃でしょうか) 京から移ってきたと言われます。
尾呂志氏
尾呂志氏は出自は不明ですが長亨(15世紀末頃)には、この地で勢力を張っており、永禄(16世紀の中頃)頃には堀内についています。
鵜殿氏
鵜殿氏は有馬氏と同じく熊野別当家の出といわれます。14世紀の中頃には既にこの地に勢力を張っていました。興国 2年 (北朝の暦応 4年 1341) には南朝方につき南朝から感状を貰っています。永徳 2年 (南朝の弘和 2年 1382) 頃は北朝につき、攻め寄せた南朝方の北山勢に鵜殿城を包囲攻撃されています。 (南北朝参照)
有馬氏
熊野別当家の出と言われ 産田神社 神官の榎本氏は 有馬 (今の熊野市有馬町) 一帯に勢力をはり有馬氏を名乗りました。古くは寛治 4年 (1090)「安楽寺文書」に有馬荘司が牟婁郡の内幡大将に任ぜられたとあり、又、保元・平治の乱の頃に、有馬実通、有馬忠方の名が見える事から、有馬氏は平安時代には産田神社の神官としてこの地を領していたものと思われます。永徳 2年 (南朝の弘和 2年 1382) 頃は先に述べた鵜殿氏と同様、北朝方となり北山勢との戦いで兄弟三人と家子若党数輩が討死しています。
室町時代、応永年間(1394-1428)には、有馬和泉守忠永は、阿田和(現御浜町阿田和)から行野(現尾鷲市)までを支配したと言われています。阿田和付近では忠永の一族、榎本出雲守が神木(こうのぎ 今の御浜町神木) に館を持っていました。又、賀田(今の尾鷲市賀田町)では一族の榎本具行が、城を築いています。
「紀伊続風土記」 では、和泉守忠永は1412年没、その子は忠親と言われます。しかしこれはどうやら誤りで、忠親は永正18年(1521)に産田神社を造建したという棟札があることから、忠永と忠親の間に一代あったことは確実です。
享徳3年(1454)には、有馬氏と鵜殿氏が阿田和で合戦したとの記録があります。 「熊野年代記」 です。「有馬ト鵜殿ト合戦ス。鵜殿重道19人討取ル。9月ノコトナリ。阿田和塩田加勢。」
有馬氏の本拠地は有馬本城です。今の熊野市有馬町で、産田神社の近くです。弥生期の津の森遺跡と同じ地域ですから、この一帯は古いのです。今はその遺構と思われる場所の大半が田畑となり、数軒の民家が有ります。このため、城の遺構は定かでありませんが、堀や古城という地名が産田神社の近くに残り、また、熊野では珍しい条里制的な水田地割りも残っているそうです。大きさは、東西67間、南北31間(120m X 55m)と記録されており、付近の地形はほぼそれに合致しています。
とあり今度はヒント」になりますかね。
6228 別に 呑舟 03/19 09:19
有馬 鈴木 土居記へはこう繋がるのですかね。
鈴木姓は、物部氏族の穂積国興の三男基行が鈴木を称するに始まる。
大姓の出自の主流が源平藤橘と称する中で、鈴木姓は穂積を主流としている。
紀伊国牟婁郡熊野邑が発祥地のち名草郡藤白浦が本拠地、諸国の鈴木氏は此の流より分かれたと伝えられる。
藤白神社は熊野権現九十九王子社の別格五体王子の一つで、源義経に仕えた鈴木三郎重家は藤白地頭である。
6229 地図によると 呑舟 03/19 09:38
紀勢本線熊野駅の隣「有井」駅の周りがすべて有馬ですね。
6235 藤白鈴木氏と土居・今城氏 今城 03/19 21:49
お手数を掛けます。
昨夜#6222を投稿した後、あれこれ調べて藤白と有馬の場所、鈴木重家が藤白鈴木氏であること、藤白鈴木氏は穂積姓鈴木氏の本家筋とみなされていること、など色々と判って来ました。
土居記の「藤城主」を藤城の城主と読んでいましたが、正しくは「藤白主」で、藤白の主の意味のようですね。地図で海南市の藤白神社と鈴木氏屋敷跡を確認しました。有馬は三重県熊野市で、藤白が紀伊半島の西側であるのに対し、有馬は東側にあり、両者は遠く離れています。三間の土居・今城の祖が重家の子供とすると、藤白には関係しても、有馬は関係するとは思えません。しかし、今城が有馬殿と呼ばれていたのが事実とすると、有馬に関係があるのかも知れません。その場合には藤白鈴木氏から出たというのは怪しくなります。それよりも、鈴木氏系図を見ますと重家の子は皆鈴木氏を継ぎ、伊予に逃れた形跡は認められません。土居・今城の祖が鈴木重家から出たと言うのは怪しいですね。勘ですが、有馬氏から出た可能性はありそうです。
清良記も土居記も虚が多過ぎますね。箔付けのための創作と見るべきかも知れません。
もう一つ、西園寺氏が宇和郡を所領にした時期と、土居・今城氏が西園寺氏配下に入った経緯を調べる必要があると思います。清良記を読みますと、土居氏はそれこそ自警団の頭という雰囲気が感じられます。その地域のおら達のリーダーという感じで、他所から来た人物とは思えず、自然発生的な国人領主だったように見えるのですが、一次史料が無いので何とも言えません。
6243 土居氏は鉄砲の名人だった? maru阿弥 03/23 18:12
土居氏は、鉄砲の名人、鈴木孫一と縁があられましたか。
信長と戦った、本願寺精強の鉄砲部隊ですね。
ゆづき城に鉄砲を持ち込んだのは、土居氏であった?
熊野ゆかりとなると、やはり皇室との深いつながり南朝方でもありましょうか。
一遍が熊野を訪れた時、お世話されたのは土居氏であった?
6261 西園寺氏と長慶天皇と河野通尭の連合 maru阿弥 03/27 19:24
後醍醐天皇を暗殺から助けた西園寺氏が、南朝として活躍されていますね。
伊予の西園寺氏も南朝の可能性が高いのでは。
長慶天皇の中宮が西園寺氏の娘ですから、南朝と西園寺氏は強力な関係です。
この長慶天皇と河野通尭が同じ時代、強力な連合を組まれていますね。
南朝の有馬氏も動きそうですが。
6266 Re:6243,6261 全く無関係と思います 今城 03/28 21:43
宇和西園寺配下の土居・今城氏は、紀州鈴木党から出たという話は、今はかなり眉唾と思っております。まして雑賀孫一と関係有りとは全く考えられません。
鉄砲については清良記に気になる話が書かれています。土居清良は強力な鉄砲を持っていて、配下に鉄砲の名手が揃っていたと言うのです。これを読んだときは、軍記物なので大げさに書いているだけと思っておりました。所が森光晴先生だったと思いますが、清良の大森城でトーチカの跡を見つけたと仰いました。これを聞いて、ひょっとすると強力な鉄砲の話は本当かも知れないと考えるようになりました。当時の鉄砲の到達距離はせいぜい100mくらいです。この距離では、一発撃ったら二発目を撃つまでに飛び込まれてしまいます。しかし、飛距離の長い強力な鉄砲があるなら、状況はかわります。トーチカのことがもっと詳しく判らないと何とも言えません。
強力な鉄砲があったとしても、清良記を見る限り西園寺配下にすら行き渡っていた雰囲気は感じられず、清良のみが持っていたようです。まして西園寺氏を飛び越えて湯築城に持ち込むなど、到底考えられません。
土居・今城氏が南朝方で活動したのではとのお話も、考えられませんね。土居氏も今城氏も今で言えば村長かその下の字の長です。軍隊で言うなら兵力はせいぜい小隊長か中隊長クラスです。単独で外に出て活動する力はありません。旗頭の西園寺氏が動員を掛けて出て行かない限り、自分らでは何も出来なかったでしょう。その宇和郡の西園寺氏が、南北朝時代にどんな役割を果たしたか、聞いたことも読んだこともありません。何か資料があればご教示下さい。
5509 樽味四反地遺跡現地説明会 今城 03/16 10:52
樽味四反地遺跡第十六次調査の現地説明会が開かれます。
日時:3月17日(土) 午前10時〜 雨天決行
問い合わせ先:松山市埋蔵文化財センター 089-923-6363
5510 人気温泉地ランキング なかなか 03/16 20:44
最近の、Yahoo人気温泉地ランキングベスト100
http://domestic.hotel.travel.yahoo.co.jp/special/onsen_ranking/index.html
1位:箱根 2位:湯布院 3位:草津 4位:登別 5位:別府 6位:指宿 7位:道後 8位:黒川 9位:下呂 10位:城崎など、道後温泉のがんばりがみえました。
ところで、湯築城を管理運営する指定管理者が丸1年を迎えますが、昨年とは何かが変わったでしょうか。役所的なところからもっとわかりやすく発展的に変ってきたでしょうか。願わくば、湯築城を大いにアピールしていただき、伊予の松山を、河野氏の存在を世界に大いに知らしめていただきたいものです
5519 及第点は難しい 今城 03/19 16:05
指定管理者による運営は、湯築城跡に関しては代わり映えしませんね。或る面では質が落ちました。
指定管理者となったGENKIは庭園業者など3社の連合で、史跡などに無関係の業者なためか、最初に打ち出した年間予定を見ますと、湯築城跡を単なる広場としか認識していない印象を受けました。館長に石野先生を選んだのが僅かな救いで、事業計画は若干修正されましたが、資料館の館員は、道後公園管理事務所の従業員でしかなく、資料館の展示物や復元した施設などの理解も愛着も感じられません。埃がたまっていても知らん顔。展示物の配置におかしい点があり、指摘しても直さないなど、首を捻る点が多々あります。指定管理者教育からやり直さなければダメと感じています。
5522 期待していたのですが なかなか 03/19 22:34
平成18年度から、民間の柔軟性を取り入れようと日本全国で始まった指定管理者制度。
応募した事業者の中から、アイデア満載の事業計画が認められた事業者が、湯築城跡の管理運営を指定されたはずです。単にコストを削減しただけの公園管理では困ります。
今年度は、河野氏が過去に催した歌会や茶会などのイベントが数多く実施されたのではないかと思っていましたが、残念です!
そこに河野氏というすばらしい資源があるのに、なぜ活用しないのでしょうか。
道後の歴史と併せて、河野氏の存在を是非にも社会に周知願いたいものです。
5523 なかなかに、厳しい maru阿弥 03/23 19:11
なかなかに、厳しいですよ。
河野氏を前面に押し出し、観光資源化を図っていた北条市が松山市に吸収されたため、
かえって、河野氏がうすれてきましたね。
河野氏へ回す予算が無いのでしよう。
松山市は、坂の上の雲で手一杯の状態です。
坂の上の雲が、伊予水軍につながるのですが、そこまで頭がまわらない。
いや、坂の上の雲でも、軍国主義と批判され、
河野氏の出る幕はないですよ。
文化人は、なかなかに、武ばったことが、おきらいな方が多いようで。
5524 いよいよ・・なかなかの国情哉 遊行笑人 03/23 21:12
しばらく修業に出てる間に・・・全国温泉ランキング100選の話題かと思いきや?
湯築城下の国情の義、評定所にて真義を重ねて居られた御様子・・なかなか難儀哉?
昨今土佐と讃岐も私的にも内心騒々しく定まることも、奔走の所以にて御無沙汰しております。
なんとか成らぬものかと・・・古き貴し伊予を偲ぶ国造りのマニフェストを創案したいものよ!
5515 伊予と忠臣蔵 呑舟 03/17 20:57
一見なんの関係もなさそうであるが、(事実関係ないのかもしれない 笑)
忠臣蔵に架空とも実在とも言われる 赤穂浪士討ち入りの際の武器調達した、あの有名な「天野屋利兵衛は男でござる」の天野屋利兵衛は大野家の落人かもしれない。
以前から気にはなっていたのですがあまりにも荒唐無稽すぎるので投稿はためらっていましたがネットの性格上、万民が見てるので書いてみます。意見のある方どんどん書いて!
根拠は「屋代島大野系譜」に大洲の大野直之の弟に大野九郎兵衛直実の子が
「天野屋九兵衛と称し子孫、摂津大阪上平野町ニ住ス」
との記述があり、同じ大阪平野町で「天野屋」が二軒あるとも思えないからです。
大野系図はただ一行記すのみですが、大野一族は慶長年間に離散したのでそれから
100年後の元禄時代は九兵衛の子供の代ですかね。
天野屋利兵衛は寛文1年(1661)生まれで名は直之で元禄7年に天野屋通しの称
「九郎兵衛」を踏襲しています。元禄14年の討ち入りの時も利兵衛ではなく九郎兵衛
です。
未だ仮定の段階ですが、赤穂城明け渡しの際、大石内蔵助と張り合って遁走したと
言われる、一代家老の大野九郎兵衛も大野家の縁者ではないかと想像しています。
ある系譜専門家もそのような指摘をしています。
九郎兵衛は大野家の名乗りで直澄 直周も使用しています。
私の勝手な想像ですが、先に赤穂浅野家になんとか経済官僚として仕官できた
大野九郎兵衛が、大阪で商売がうまくいっていなかった親戚の天野屋九兵衛に
赤穂塩田の利権を与えて助けたのではないでしょうか。
赤穂城明け渡しの時は、家臣の引き締めのため、口裏合わせて大芝居をうって遁走したのではないだろうか。
置き忘れた孫娘を後から内蔵助が届けてくれたのが、やらせっぽい。
代わりに家名断絶してでも内蔵助を助けろと九郎兵衛が天野屋に厳命したとすれば筋が通る。天野屋も倒産の危機から救ってくれたのが、赤穂浅野の塩田利権であるし、元々武士だから金には頓着しなかったのかもしれない。家老も天野屋も大野家らしい直情
的なDNAを引き継いでいるみたいである。
今から裏をとる長い作業が始まりますが、皆さん応援してください。
『不忠者 大野九郎郎兵と義侠の天野屋利兵衛が親戚で大願成就のため、大石内蔵助と
仕組んだ戦略なら 今の忠臣蔵の筋書きは大幅に変更しなくてはならなくなる』
事実ならわくわくしますね。
乞うご期待!
6167 少し進展しました。 呑舟 03/07 21:45
最近上田本大野家譜と讃岐屋本大野家譜を入手しました。
それによると大阪平野町の天野屋を継いだのは直行の子ではなく大野直昌の跡取りの
熊(王)丸となっています。熊王丸は後 直常となります。嫡男ではなく跡取りと書いたのは意味があり、直昌は嫡男忠太夫を廃嫡し、たぶん正妻も離縁し、宇都宮豊綱の
出戻り女 朝子を娶る。完全な政略結婚である。これにより宇都宮家の家督を譲り受け
宇都宮姓を名乗ることも契約している。但しこれは懐妊中の朝子が婚姻後に男子を産む
ことが条件だったらしく直昌の跡は大野家と宇都宮家双方の家を朝子が産む男子が相続
することが決められたらしく大野一族10家の契約連判状を作成している。
果たして大除城において天正11年(1583)正月17日熊王丸が誕生し前述の
ように嫡男が廃嫡されたと思われる。廃嫡された嫡男は後、豊臣秀頼の呼びかけに
応じ大阪の陣 道明寺合戦において討ち死にしています。
熊王丸はと云うと伊予総下城に伴い河野家に従う父直昌・母朝子と竹原へと落去する。
父直昌竹原で天正17年(1589)7月27日逝去すると竹原を引き払い松山天徳寺に寄宿とある寄宿するとある。この時の養父は小倉左衛門尉である。
その後、大野家出入りの大阪天野屋九兵衛が大阪表に連れて行き大阪平川町天野屋を
継承させる。この熊王丸の子か孫が男になった天野屋利兵衛と考えられる。
なら熊王丸の本当の父は誰かといえば朝子の初婚の相手一条内政となっている。
大野直昌は今様で云うと養父にすぎなくなる。
天徳寺を出発する時、和尚は餞別として別本尊の胎中秘蔵の唐絵の布袋一幅を送って
いる。熊王丸は万治3年(1660)4月28日逝去 大阪九条邑 竹林寺に葬るとある。
天野屋利兵衛は四国名家の土佐一条家と伊予宇都宮家の血を受け継いだ男となる。
6176 大阪九条 竹林寺 呑舟 03/09 09:52
ITって便利ですね。
検索すると現存するんですね。今は大阪市西区本田1-9-3
戦災を含めて2度火災にあってますが、創建は1620年代、朝鮮通信使の墓が
あることで現地では知られているみたいですね。ここなら平川町の天野屋から
歩いて20分程度ですね。
こちらも墓や記録は残ってないでしょうね。
義商天野屋利兵衛の祖父の寺のかもしれないと云うことも現住も知らないでしょう。
6185 天野屋利兵衛は(大野)直治か! 呑舟 03/12 09:18
大阪九条 竹林寺に電話してみるとやはり知らなかったとみえて「あの天野屋ゆかりの
寺だとすると当寺にとっては大変なことなので、逆に是非お聞きしたい」と興奮気味で
あった。寺は1624年創建で当時とすれば人口が増え続ける中で新開地に開いた寺で
大野熊王丸(直常)は創建わづか36年後に竹林寺に葬られたことになります。
寺は浄土宗で創建時から同派であったかと確認しようとしたところで来客があり
電話を切らざるを得なかった。
現住は本山からの派遣で東京出身だからいわれはあまり知らないし、寺も焼失を繰り返しており記録もないし寺域ももとは現在の3倍あったが区画整理で取られてしまった
とのこと。
大阪空襲の「焼け地蔵」でも有名な寺なので墓が残っているかどうか。
熊王丸(直常)の戒名である「天徳院殿圭厳常白大居士」の墓が見つかれば葬られた
ことと予州大野家直常が平川町天野屋を継いだことが証明されるのだが。
だれか関心のあるかた探してもらえませんかね。あるとすれば無縁仏となって墓石だけ
を積み上げた山の中に隠れていそうかなと。
前置きが長くなりました。
天野屋の跡を継いだ大野直常(熊王丸)の妻は同族、大除城主大野昌の弟、大洲城主大野直之(直行)の娘、中和門院の女房「備後」の娘となっている。直之没落後、同女は
1585年豊後に立ち退き、1590年入田両庵なるものと結婚している1593年大友義統没落の
時、防州山口を経て京都に移っている。
32歳のとき中和門院の女房として宮中に上がっている。
中和門院慶長17年8月1日中和門院崩御により尼となり(寛永7年7月3日説もあり)万治2年7月18日卒(万治3年説あり)とある。京で逝去したと思われるのだが
大阪下寺町「大蓮寺」に葬られたことになっている。
こちらの寺も現存していて天王寺の近くである。
問い合わすとこちらもご他聞に漏れず戦災で焼けて記録は残ってないと、寺域を探しまわるのは一向に構わないとのことであった。
「備後」の戒名は「見性院秋月榮春大姉」である。
親族「備後」の葬儀の出し「大蓮寺」に葬ったのは平川町天野屋九兵衛(直常)では
ないかと思っている、天野屋からは「大蓮寺」も「竹林寺」も現在でも歩いて20分
程度のところである。
備後の娘との間に直常は七郎兵衛直賢と娘1人をもうけている。直賢の子が九兵衛直治
であり「忠臣蔵」時代の人物となる。
「忠臣蔵」の大石蔵之助の浅野家再興の宮中工作は「備後」の筋系で「直常」の妹
高仁親王の乳母として参内した正智院のの筋ではなかろうか。
ウイキベヂアの天野屋利兵衛の項では直治ではなくなぜか大洲の「直行」と同じで
予州大野家代々の名乗りである「九郎兵衛」となっている。
赤穂潘不忠の家老も「大野九郎兵衛」である。
こちらは「松阪町 討ち入り」後なぜか「備後」「正智院」ゆかりの京都で
大野家の本姓(大伴「伴」)を名乗って余生を送っている。これはHP「ろんがいび」
でも紹介されている。
四国・一条家・宇都宮家・そして大野家の混血「天野屋利兵衛」の探索は続く。
赤穂潘家老大野九郎兵も。
6188 戦国〜江戸の時代には 海遊庵主 03/12 13:05
呑舟師、伊予と難波の天野屋利兵衛との結われも誰も思いもつかない題目・・ご熱心な想いが切々と伝わって参ります。
此れほどまでに縁が重なるものかと!・・是非ともこの家系の御子孫の方が御出ましあれば貴重な表題になるのですが、気長に待つのも楽しからずや!
6193 結構わくわく 呑舟 03/13 00:49
結果として没落河野家や大野家等河野一統で、よき時代を懐かしむ中で、国民にメジャーな話題に四国ゆかりのものが活躍したのだぞと証明できれば、夏の大花火のようで
スカッとするかなと(笑い)
ITNとは面白いもので話題にあげるだけで、検索に引っかかり、同好の士を呼び寄せる
魔術があります。
最初に「伊予と忠臣蔵」を投稿したときはは「天野屋利兵衛」の項の検索順は200位
以下でしたが、昨日は50数位#6185を書いた後は30数位に検索回数があがっています。
この間今日の10時から23時までの「談話室ゆづき」の閲覧回数は160回を超えて
いるのと「天野屋利兵衛」の当ブログの順位アップは関連していると思っています。
何が言いたいのかといいますと同好の士もしくは関係者がそのうち「ゆづき」に現れて
くるでしょう。そのためにキーワードを繰り返し書いています。
待ちましょう・・・・・わくわくしながら
6197 中和門院と高仁親王 呑舟 03/13 14:58
大洲大野系図に「直之の娘、中和門院の女房となり主人没後 尼となる」と
讃岐屋本大野系図は「熊王丸の妹(母宇都宮豊綱女・父直昌)寛永年中 高仁親王
の乳母として昇殿、没後尼になり1669年82歳で逝去」の旨が書かれている。
なにげなく調べてみると大変な状況になっている。
中和門院は後水尾天皇の母(関白太政大臣豊臣秀吉の養女で藤原前子[実父は関白
太政大臣近衛前久]で秀吉の意向で送りこまれている。
苦々しく思っている後陽成天皇は良仁親王は廃して自分に意に沿う天皇を決めようと
したが関が原の合戦で徳川が勝つと豊臣に代わって家康は天皇家に干渉を始める。
1613年江戸幕府は朝廷の統制を目的とした「公家衆法度」「勅許紫衣法度」ついで
「禁中並公家諸法度」を公布して京都所司代」を置いて宮廷を管理下に置いた。
後に外戚の立場を固めようと1620年徳川和子が女御として入内する。
1627年紫衣事件、徳川家光の乳母お福(春日局)がこともあろうに無位無官で朝廷
に参内し天皇家のないがしろにした。
この和子(中宮・東福門院)が生んだ子が高仁親王と第三王子の若宮である。
どちらも徳川の血の入った子である。徳川秀忠は天皇に圧力を加え続け後水尾天皇
は高仁親王への譲位を決意します。この時高仁親王は乳飲み子で一歳、記録によれば
熊王丸(天野屋)の妹がお乳を上げて育てている最中のことである。
果たして徳川の血の入った高仁親王はただちに夭逝する。
2歳未満であった。
後の若宮も早世し徳川の血流の男子はいなくなり女子だけ残される。
このあたりでお気づきであろうが非常にきな臭さを感じる。
おそらく中和門院の女房備後の手引きで天徳丸の妹・正智院が高仁親王の乳母として
昇殿したことは「ある密命」を受けていたものと思われる。
徳川家憎しの朝廷からすればいまや天下人の徳川に抗うことはかなわないが、徳川の
血を断固として入れることを拒否するのが大方針であったのであろう。
高仁親王の一番身近にいて、天皇の意を介し目的を達するために正智院は送りこまれた
のであろう。
わずか1年弱の乳母で尼となり82歳まで永らえることは、天皇家の庇護があったもの
と考える。
この正智院1669年11月9日逝去する。
直常(熊王丸)の子、直賢は正智院と親交があったと思われる。
直常の孫天野屋利兵衛(直治)は直賢の子であり、別の史料によれば天野屋利兵は
(1611年--1733.8.6没)とあり時代は符合する。
徳川家が困るのであれば天皇家は影で赤穂浪士を応援するのは一向に構わない
土壌がここにあり、「忠臣蔵」の宮中工作は成功したとみている。
なぜか天野家は弟三郎兵衛が継ぎ、その次の代で直治の末子、九兵衛直晴に家督を戻して
いる。
弟に譲らざるを得なかったは「赤穂浪士武器調達の件」に原因があるのだろう。
直晴の子、七郎兵衛直棟、その子周蔵までの記述があるから1800年代まで家子孫がいる
とおもわれる。
これはとりも直さず天野屋利兵衛の子孫は現存する可能性が高いことを意味する。
6198 訂正 呑舟 03/13 15:09
1627年紫衣事件、徳川家光の乳母お福(春日局)がこともあろうに無位無官で朝廷
に参内し天皇家のないがしろにした⇒天皇家を・・・
おそらく中和門院の女房備後の手引きで天徳丸の妹・正智院が高仁親王の乳母として
⇒天徳丸の妹は熊王丸・・・
6295 忠臣蔵と伊予のつながり 呑舟 04/04 22:22
「元禄十六年二月四日、松山藩預かりの赤穂義士十名は江戸三田の松山藩邸に於いて、幕命により切腹した。
十士の氏名
○ 大石主税良金 十六歳
○ 堀部安兵衛武庸 三十四歳
○ 中村勘助正辰 四十八歳
○ 不破数右衛門正種 三十四歳
○ 千馬三郎兵衛光忠 五十一歳
○ 木村岡右衛門貞行 四十六歳
○ 岡野金右衛門秀包 二十四歳
○ 菅谷半之丞正利 四十四歳
○ 貝賀弥左衛門友信 五十五歳
○ 大高源吾忠雄 三十二歳
時の松山藩主 松平隠岐守定家は義人たちを武人の鑑として丁重にあつかった。
後にこのことを知った播州赤穂の人々は、赤穂の特産の櫨の苗木を感謝のの紀念として、松山に送り届けてきた。
松山潘ではこれを石手川の堤防とこの堀の堤に植えた。(中略)
ちなみに菅谷半之丞は伊予郡松前の生まれであり、杉野十兵次は興居島の人である。
中村勘助の娘るりは大洲新谷に嫁いできた。こうして考えると大洲潘の名産ろうそくにも関係があるのかもしれない」
このように大洲の人物も赤穂義士の一人となるのであれば、大野九郎兵衛が、赤穂藩家老でもおかしくはない。
というよりも伊予人が九郎兵衛を含めれば伊予人(大洲)が三人も播州赤穂に仕えていたとなれば、単なる偶然ではなく「転職の口利き」が行われたと見るほうが自然なのかもしれない。
中小企業の途中入社みたいなものだから、氏素性はもちろんのこと、実践的なスキルが要求されたのではなかろうか?
海とは関係ない陸の茨城県笠間から移って来た浅野家は財政基盤を米よりも赤穂製塩においたのではなかろうか?製塩の技術者と流通のプロが集められたに違いない。その中に伊予の落人もあったのかもしれない。
この菅谷半之丞正利は直之の別名「菅田」の変名かもしれない、なら大野九郎兵衛と親族の可能性がでてくる。
道筋がおぼろげながら見えかくれする。
尚、出だしの文章は今城さんの庭である「ゆづき城」の堤に「この木の由来」として平成10年に「道後水利組合」が立てた説明文の一部である。
どなたか伊予人「菅谷半之丞正利」と同義士「杉野十兵次」の出自についてご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?
6376 赤穂朗史さんとの応答 呑舟 04/29 09:19
呑舟質問
『初めてメールさせていただきます。
不忠の臣と伝えられる赤穂藩家老 大野九郎兵衛の出自を捜しています。
小生、伊予久万(現久万高原町)の大除城主大野家の足跡を調べています。
大野九郎兵衛は伊予大野家の跡取(家督)の名乗りですので、秀吉の四国平定において下城した後の大野一族の一人が、
親交のあった広島浅野家のつてを使って、赤穂浅野家に仕官できたのではなかろうかと推測していますが、史料がありません。
貴HPによると、赤穂塩田開発の発起人は大野九郎兵衛と書かれていますが出典はなんでしょうか?
私も赤穂塩田開発には瀬戸内海式塩田を知る者が指導したと思っておます。
陸地の笠間から付いてきた家臣では塩田開発のノウハウはないと思いますので、ますます伊予の大野がくさくなります。
ご承知のように入浜式製塩は瀬戸内海ではあちらこちらで昭和になるまで行われていて昭和の後半から流下式に変わり
その後、外塩との価格競争に負けて次々と廃田となりました。
入浜も流下も天日で塩水濃度を高めて最後に釜で煮詰める作業をするとおもうのですが、赤穂塩は当時、燃料の
薪はどこから調達していたでしょうか?相当な量が必要なので、当時製塩していた毛利藩も苦労して確保していました。
伊予大野家下城から100年たって赤穂事件はおきますので赤穂の大野九郎兵衛は3代ぐらい後の人物と思われます。
また、藩札発行者も九郎兵衛と書いてありますが出典はなんでしょうか?
忠臣蔵といえば芝居では天野屋利兵衛はつきものですが、赤穂藩との関係は史料上見出せないと巷間言われてますが
本当でしょうか?
天野屋利兵衛は架空の人物という人がいますが、大阪代官所の宗旨改帳に記録がありますから実在の人物です。
天野屋利兵衛は本名は「大野九郎兵衛直之」でこちらも伊予大野家当主大野直昌の末裔だと私は思っています。
今の段階では赤穂の大野九郎兵衛は、大野直昌の弟、伊予大洲城主大野直之の末裔とみています。
となると、赤穂藩経済官僚大野九郎兵衛は、大阪平野町の豪商「天野屋」と親戚の関係となります。
大阪天野屋が赤穂塩を扱った記録はございませんか?間接的にも?
さんざん儲けさせていただいたのと親族が家老であるなら、武器の調達ほか金銭の援助は命をかけてもすると思われます。
そもそも二人の九郎兵衛は世が世なら城主ですので。
今のところ記録がないらしいですが。
さすれば、不忠の大野家老は不忠ではなく蔵之助と示し合わせて出奔していると思われます。
貴HPによれば4月11日に城内で大評定を行い篭城切腹の大石派が謹慎開城派の大野派を追い出して世論を形成した
ことになっています。しかるに当日夜逃げではなく翌12日夜逃げとなっていますが、これは事実と異なるのではないでしょうか?
夜逃げは後世の捏造で、予定どうり家財を於いて身軽にでていったのではないですかね。蔵之助と示し合わせて。
後世の伝聞では九郎兵衛はあわてふためいて孫娘を置き忘れた、とありますがこれなどは尾ひれの範疇でしょう。
家の隣が城門とはいえ24時間開いている筈もなく当時の混乱期は城内への出入りは厳重であったにちがいない。
そんななかで夜逃げができるとも思えない、現在の大石神社の駐車場の前辺りが屋敷であったなら大石家と目と鼻の先ですよね。
元禄15年11月29日の蔵之助の手紙では差し押さえの大野の財産は本人の願いにより返すとあり、出奔行方不明ではなく
連絡を取り合っていて、不忠の者とも思っていない傍証であり、蔵之助と組んで裏方としての役割を果たしていたのではなかろうかと
思っています。
松阪町討ち入りが失敗したなら逃げくる上野介を上杉藩境で襲う計画を九郎兵衛派がしていたと伝えられるのもあながち
荒唐無稽のことではなかったのではないでしょうか?
二人の大野九郎兵衛が親族同士で赤穂義士別働隊として動いていたと証明されれば、人口に膾炙された「忠臣蔵」
のイメージが変わるとおもうのですが。
いかがなものでしょうか?なにか手がかりはござませんか?』
赤穂朗史さんの返事
『>貴HPによると、赤穂塩田開発の発起人は大野九郎兵衛と書かれていますが出典はな>んでしょうか?
廣山堯道氏の『赤穂塩業史』(赤穂市)の111頁には、「塩田対策─年貢・運上の増徴政策は家老大野九郎兵衛のもとに推進されたが、彼は遂に延宝四年藩札発行に行きついた。…」とあります。
>私も赤穂塩田開発には瀬戸内海式塩田を知る者が指導したと思っておます。
赤穂の近くに姫路があります。姫路の大塩という所から、大量に入浜塩田の技術者を導入しています。
>また、藩札発行者も九郎兵衛と書いてありますが出典はなんでしょうか?
同上の書で指摘しています。
>忠臣蔵といえば芝居では天野屋利兵衛はつきものですが、赤穂藩との関係は史料上
>見出せないと巷間言われてますが
>本当でしょうか?
私の知る限り、史料はありません。
>大阪天野屋が赤穂塩を扱った記録はございませんか?間接的にも?
残念ながら、調査していません。時間に余裕があれば、面白いテーマですので、
研究してみたいです。ご教示をお願いします。
>貴HPによれば4月11日に城内で大評定を行い篭城切腹の大石派が謹慎開城派の大>野派を追い出して世論を形成した
>ことになっています。しかるに当日夜逃げではなく翌12日夜逃げとなっています
>が、これは事実と異なるのではないでしょうか?
原惣右衛門とか岡島八十右衛門の記録では、そのようになっています。真相を知らない者はそう感じたのでしょうか。
>元禄15年11月29日の蔵之助の手紙では差し押さえの大野の財産は本人の願い
>により返すとあり、出奔行方不明ではなく
>連絡を取り合っていて、不忠の者とも思っていない傍証であり、蔵之助と組んで裏
>方としての役割を果たしていたのではなかろうかと
>思っています。
私のホームページでも、大石内蔵助は、討ち入り前に、大野九郎兵衛に財産を返したことを紹介しています。多分、内蔵助と九郎兵衛は、親密な関係にあったと思っています。ただ、芝居の世界では、憎まれ役が必要で、その度合いが大きければ、演出効果は抜群ということも事実です。
>二人の大野九郎兵衛が親族同士で赤穂義士別働隊として動いていたと証明されれば、>人口に膾炙された「忠臣蔵」
>のイメージが変わるとおもうのですが。
>いかがなものでしょうか?なにか手がかりはござませんか?
残念ながら、私は、現在、そのような史料を知りません。
ただ、大野九郎兵衛の墓と言われる物があちこちに存在します。時間があれば、この問題にも取り組んでみたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
赤穂朗史(バーチャル名)』
呑舟再メール
『早速のお返事ありがとうございます。
大野九郎兵衛が巷間伝えられるように、大石等から不倶戴天の敵ではなさそうなことがわかり推論を発展させることができます。
もしお分かりならば大野九郎兵衛の生没年と父親の名前は分かりませんか?
またいつから赤穂藩家老もしくは赤穂藩に出仕していたかわかりませんか?
また赤穂塩流通に欠かせない港は赤穂のどこにありましたでしょうか?
それは何石船まで停泊できる港でしたでしょうか?
それと大野九郎兵衛の墓と伝えられるのは何処と何処でしょうか?
大野家は本姓は大伴姓を自負していますので「伴姓」を名乗った京都の墓が近いのかなと推測してますがわかりません。
私は「大阪 天野屋家」の墓がある大阪地区ではないかなと捜しています。
さて順序は逆になりますが、予州大野家と天野屋と赤穂藩家老大野を結びつけたのは、たまたま「予州大野家系図」群の
中で「屋代島(現周防大島町)大野系譜」に「大野直之の弟、大野九郎兵衛直実の子、天野屋九兵衛と称し、摂津大阪
上平野町に住す」との記述があり、また別に「上田本大野系譜」や「讃岐屋本大野系譜」は直之の子ではなく、大野直昌の
子、熊王丸が父が仕えていた予州河野家とともに秀吉により没落し小早川の領地芸州竹原で没した後、松山天徳寺に
寄宿し後、大野家出入りの大阪「天野屋九兵衛」に連れられ上阪し後、跡を継ぐとあります。
この熊王丸は万冶三年(1660)4月28日、大阪九条邑松林寺に葬るとあります(この寺は福島区に現存します)
浅野と大野の関係は秀吉に最後まで歯向かった予州河野家、村上水軍(野島・因島家)来島は別、河野家筆頭家老
大野九郎兵衛直昌(なおしげ)及びその甥で能島村上武吉の娘婿、大野直政らが秀吉が天下掌握の後、切腹断絶の
意向のとき、河野家と村上家のグループ、毛利家・小早川家の斡旋で当時の秀吉の側近、浅野弥兵長政にとりなし
を頼んだときからと思われます。
これより先天正10年、織田信長の命を受けた秀吉が四国中国攻略のため河野家・毛利家双方にかかわりのある
村上水軍の内、来島家、能島家の代表を姫路の浅野長政邸に呼び味方への工作を行ったともあります。
この時の工作で秀吉に寝返った来島は後、大分の大名となり明治を向かえ、寝返らなかった能島村上は毛利家と
運命をともにして、瀬戸内最大の海賊衆の権限は秀吉の「海賊禁止令」により消滅し、毛利家御船手組として細々と
明治を向かえます。
この姫路浅野邸会談の野島村上代表が大野兵庫直政となります。直政がこの時、土産にもらった槍等は明治の中ごろ
まで屋代島大野家にはあったといわれています。(子孫に聞きましたが、「今はどこにあるのか?わからない」とのこと)
もし分かるのであれば、秀吉が姫路城にいたときの浅野長政邸は今のどこにあったでしょうか?
今のジャスコ姫路リバーシティ店の前の赤穂に繋がる道の沿線あたりではないかなと推測しています。
伊予と忠臣蔵については「談話室ゆづき」に同名でスレッドを立てていますから興味があれば一度ネット検索してください。
できれば返事はそちらに追記して頂ければ同好の士の目に触れて話が深まると思うのですが。』
6759 進みませんな・・・ 呑舟 07/12 11:24
なんとか、大坂商業大学の協力で天野屋利平宅は突き止めました。
なんのことはない、今の大阪城の大手門の前でした。
当時の地図をみると中州ばかりで住める土地なんか殆どない。
河野・村上水軍が大坂本願寺に信長に対抗して兵糧を運び込みますが、殆ど今の天守閣(本願寺に盛土をして大坂城は築かれた)近くまで船を寄せることができたのでしょう。
伊予出身の赤穂浪士「菅谷半之丞正利」と同義士「杉野十兵次」の出自を捜してますが
この看板を立ててある湯築城の今城氏から音沙汰ないのは分からないのか案内板が撤去されたかでしょうかね。
赤穂藩への仕官ルートといきさつが分かれば「赤穂藩家老 大野九郎兵衛」ルートも
手がかりがつかめるかと思ったのですが・・・・・
6761 「菅谷半之丞正利」と「杉野十兵次」 今城 07/12 22:54
> この看板を立ててある湯築城の今城氏から音沙汰ないのは
つい今し方見たばかりなので。
> 伊予出身の赤穂浪士の出自を 捜してますが
私宛のお尋ねとは思いもしませんでした。二人のことは全く知りません。
なお、この説明版は湯築城外にあり、湯築城の堤ではありません。外堀と
その南を流れる川を分ける土手の上にあります。その川は流量が激減し、今
は小さな暗渠になっていますので、知らないと判らないでしょう。
6762 そうですか・・・ 呑舟 07/13 07:51
なると、市か県かでないと分からないのかもしれませんね。
赤穂義士に伊予人が二人も参加していたのは地元では話題だったのかと思いましたが。
6895 松山市教育委員会によると 呑舟 08/22 10:26
教育委員会文化財課に問い合わせをしていたところ親切にも関係資料を添えて菅谷半之丞について連絡を頂きました。
出典は「垂憲録拾遺」らしく
菅谷半之丞 名は正利 四十四歳にて没
伊予郡某村出身で江戸表に出て浅野家に仕官(徒士)のち赤穂の代官(100石)となる。
(注釈)
按ずるに伊予郡北伊予村大溝字原田には菅谷半之丞の裔と名乗るものあり、
また「親類書」によれば半之丞の祖父の代より赤穂に仕えたる旨明記せり。
「親類書」は久松家所蔵の「赤穂御預人始末」にあるから信頼性は高いのであるが
同書は”疑わしい”と景浦直孝氏は伝聞部分に疑問符をつけておられる。
まだまだ史料がたりない・・・・
6896 こじんまりとした墓 maru阿弥 08/22 11:21
菅谷半之丞の墓なら、松前に残ってますね。
こじんまりとした墓でした。
近くに、樹齢400年の見事な藤つるがありますし、
正木城が松山へ移り、残った石垣を積み上げた庚申堂がありました。
昔の石組み、1600年代のは崩れていないのに
新しい石組み、1800年代のは、崩れているのです。
職人の腕も違うようですね。
6897 松前ですか 呑舟 08/22 16:42
関が原の合戦の最中、豊臣秀頼の城明け渡し命令書をもって村上元吉らと竹原から海路乗り込んだ屋代島大野家初代、大野直政が戦ったところです。佃にだまされ前祝いの最中に襲われ、大将元吉を失い、当人も頬に槍傷を受け死ぬまで痕が残ったとされる。河野家再興の夢が破れた場所でもありますね。
西軍関が原に負けるの報が届きほうほうの体で竹原に逃げ帰ります。
これより本格的な「河野崩れ」が始まります。
大野直政、年老いた村上武吉とともに遺児、元武(五歳)の後見し屋代島和田にて
永らえることとなる。
不思議なえにしですね。因縁の場所とは。
石組みは江戸以降は下手になりますね。外面の石は大きく楔のように奥に深く入り
かつ重心を真下にかかるようにし、石垣の面を反らせていき且つ、内部のグリ石をできるだけ厚くすろのが丈夫にするこつのようですが、崩れている石垣は例外なくグリ石が少ないか隙間が多いですね、原則さえ守れば「野面積み」でも強いのですが。
原因は手抜きか予算がなかったからでしょうね。
石垣積みは石が豊富な西国に多く、東日本では極端に少なくなる。青森の弘前城は桜の名所で有名ですが、ほとんど土塁で石垣は一部だけですね、仙台青葉城も、会津若松城も同様ですね。
徳川御三家の水戸も石垣で築きたかったが石材が近くになく困っていたのを讃岐松平家が本家に瀬戸内海の良質な花崗岩を船で送ったが、嵐にあってすべて沈没し、それ以来
水戸城は石垣作りを諦めたとか。
いまやかっての領内の笠間付近は良質な石の産地なのですが、石切職人が居なかったのかな。
屋代島の石工の腕は最高水準だったらしく、明治初期にハワイ移民として多くの石工が
ハワイの各島に出稼ぎに行きますが、彼らは当時のサトウキビ畑の灌漑用水路を緻密な石組みで作り上げ白人の主人たちを驚かせた。今もハワイのあちこちで現役の水路として使われています。
これらの石工もまた伊予からの移住者である。
7676 「難波雀」によると 呑舟 02/22 10:17
赤穂事件直前の大坂の「タウンページ」ともいうべき案内書「難波雀」によれば
天野屋利兵衛は天満の惣年寄を勤めており、備前岡山藩ほか1件、両2大名家の「倉本」及び、熊本細川藩の名代も兼ねている。
大坂天満の天野屋利兵衛は架空の人物とする赤穂浪士研究者たちには説を撤回してもらわねばならない。
「いや、天野屋ではなく天川屋である」主張する向きもあるが、同書に天川屋は別に出てくるので実在の人物であったのであろうが、住所が違う。
同書に赤穂塩の問屋が3軒書かれているが、残念ながら天野屋ではない。ただ天野屋が住んでた天満橋にお店(たな)を構えているから知り合いではあったのであろう。
中和門院備後を葬ったとされる、大坂下寺町大蓮寺も同書に名所として出てくるので
有名な寺の一つであったのであろう。
ただ、前述の九条の竹林寺は当時は川向こうだったので少し大蓮寺よりは時間がかかる。
「義士余談」(三十三)によると、大石義雄の母松壽院は備前岡山池田公の国家老、池田石見守の娘で義雄は幼くして父、権内に死別してから、15歳で大石家を継ぐまで
池田石見守の手許で育った事実により、同じ、岡山藩大坂蔵本の天野屋利兵衛とは
知己の仲であり、なにかとあとあとまで世話をしていたと論じている。
ならば、天野屋と大石は赤穂塩が取持つ縁、以前の話となる。
まだ、赤穂藩国家老、大野九郎兵衛との接点がつかめない。
ほかに、江戸時代の「義商 天野屋利兵衛」を描いた絵に着ている着物に「大野家」の木瓜紋が描かれているのは、偶然なのか、伝承があったのか? 不思議である。
つづく・・・
7677 訂正 呑舟 02/22 10:32
倉本は蔵本の間違い
5525 宮崎県小丸川と、水軍と海軍の違い maru阿弥 03/24 17:46
今朝、BSにて宮崎県中部・小丸川の川下りが報じられていました。
全長75km、日向灘に注ぎ込む豊かな水量の川、いいですねー。
これならば、充分、水軍ならば水運可能。
最近、水軍と海軍の違いに気がつきました。
水軍は、海でも川でも湖でも水のあるところどこでも、航行する。
活動範囲は、海だけとは限定しない。
そのため、海軍ではなく、水軍と呼ぶ。
水軍は、荷物を運べば、水運となり。
難所を道案内すれば、水の先達となり、
無断通行するものに、やいとをすえれば、水賊となる。
水のあるところ、随所に水軍の商売がなりたつわけです。
5526 見ましたぞ! 遊行笑人 03/24 23:10
師匠、笑人も見てました!・・・日向の国の清流・・小丸川の清流ワンちゃんとのカヌー下り!
大淀川は宮崎の大河・・・小丸川は清き流れの小とは言えど大川なるや?、水軍と海軍との呼称の相異・・・真に微妙な深意の趣きかな?・・・日向宮崎も阿波徳島(四国三郎吉野川)も・・・川の流れ沿いの先の地に、河野を『かわの・川野かもと』と曰く一族の名を残すも、この所以に遡るものかと思えて来ます。・・・伊予北条の河野も・・・阿波徳島の河野も・・・日向宮崎の河野も・此れ皆、同族にて候也。 今夜は何だか寝付きが好いわい!
5527 水軍と海軍 今城 03/25 23:38
成る程。現代の海軍は艦が大きく、海でしか活動できませんね。揚子江みたいな大河では砲艦と言う小型の軍艦が活動していましたが、まあ例外的な存在と言って良いでしょう。水軍は確かに海でも川でも湖でも活動しました。そうであるなら、maru阿弥さんが海の民を「海族」と言いましたが、川や湖を生活拠点とする民を総称するには、水族と言うべきかも知れませんね。
5534 伊藤博文と 舞鶴軍港 03/30 15:30
先日mino阿弥様に御会いいただき、楽しい一時を過ごさせてもらいました。
話しているうちに、何か懐かしい思いが込み上げ、親戚の誰かと話しているように感じました。はるか昔の血同士が、今に現れ語り合っているかんじでした。
その場で写した写真が送付され、良くみると顔の輪郭、鼻の形、耳の大きさと位置、額の一本の筋、よく似ており吃驚仰天しました。
伊予の方々とも会える機会があれば、会いたく思いました。
越智河野族は運送・水運・海軍を司った一族のようですね。
舞鶴軍港の提唱者は伊藤博文公、舞鶴大阪間の阪鶴鉄道工事で大阪福知山を開通させた、阪鶴鉄道の社長は伊予出身の土居通夫、福知山新舞鶴第一区・第六区(甲)工区稲葉弥吉、第六区(丙)工区吉田寅松(横浜埋め立て、吉田橋で有名)傘下の林など、伊予・美濃関係者らしき人たちが多数関わっています。伊藤公が呼んだのか、伊藤公に集まったのか、偶然か。
山口大和町は河野・林の姓の多い所と聴きます。ここで生まれた伊藤公の元の名は林俊介、
世間では越智宿弥の家系を買ったといってますが、如何でしょう。
小学三年東京に母と上京した時、品川駅近くを通った時、『この近くに偉い親戚が居て、父もよく行っていたよ』といった。小生はその名を聞かなかったが、そんな記憶がある。
今調べると西大井に伊藤博文公の屋敷と墓がある。
5535 土居さんと伊藤博文ですか 呑舟 03/30 23:31
通天閣の土居通夫さんですか?
伊藤博文の越智系は系図改竄と地元長州では言われています。
山口県では一番人気のない宰相です。
もっとも本人は天皇制を廃止して共和国制にして 自分自身が大統領になろうとしたとかで、秀吉でさえしなかった大不敬を試みたとかで。
もちろん薩摩や長州内部の猛反対もあり頓挫しますが。
しぶしぶ君主制の宰相となり議会を招集したとありますが。
萩松下邨塾で正規に塾生ではなく「おしん」のように外から覗き聞きをしていただけと伝えられています。年が違いますからね。寺田屋や戊辰戦争で新しい国作りに命を懸けた長州の先輩が次々
と斃れたため、漁夫の利を得ただけと。
教科書では日本を封建制から近代民主主義国家に変えた初代内閣総理大臣とは書かれて
いますが。
5536 淡路守通起探索 美濃林2 03/31 14:52
阪鶴鉄道は大阪の住友七右衛さんが発起人、恐らく通天閣の土居通夫さんでしょう。
矢張り長州では人気ないですか、
「日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である」と『朝鮮の高宗』に言わしめた人。
藩閥のためには余りは働かなかったのですね。イギリス留学で培った処世観ですかね。
帰国後革新派と言われ、『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』との言質もあるようで、天皇を掲げて起こした明治維新、共和制は無理でしょうね。
年少にして耳学問に入る。松蔭門下生亡き後松蔭精神を引き継げたのも、耳学問のおかげ、それなくしては引き継げません。権力争奪戦から見れば、漁夫の利となりまがね。
それはそうと博文の生地に、河野・林姓が多いと言います。そこの人々は五十年毎に、美濃林通忠の流を称する、林通起なる者の法事を行っているとの事。
伊予など西国にその足跡の有無を知りたくて、掲示いたしました。よろしくご教授いただければ幸です。
林秀貞が信長に追放された時、本能寺後織田信澄が信孝・丹羽長秀などに打たれた時、西国へ落ち延びた一族が考えられます。伊予へ行く者、伊予から毛利など行く者、直接毛利などを頼る者などが居た者と思われます。
この中に淡路守林通起と名乗り換えた、美濃の林が居たかもしれません。
5528 大三島の大山祇神社と大通寺から見えること maru阿弥 03/28 17:13
伊予水軍のシンボル、大三島の大山祇神社はあまりにも有名ですが、
その大山祇神社に並んで、北に大通寺があります。
河野郷の大通寺は河野氏のシンボルとして知られていますが、
同じ名を持つ大通寺が、大山祇神社に並んで建っている。
河野氏に詳しい方なら、これが何を意味するか、一目瞭然であるが、
大山祇神社と大通寺はセットであることが、大三島の配置からもしっかりと、見て取れる。
全国に、大通寺の名をとどめる寺や地名が随所に見られるが、
琵琶湖の大通寺や、美濃の大通寺、さらに奥美濃の地名、大通寺など。
これはやはり、伊予水軍や河野氏の関係を改めて、洗い直す必要があるようです。
神仏分離令により、大山祇神社と大通寺の関係が忘れ去られているようですが、
本来、大通寺と大山祇神社は一体であったことが、
大三島の大山祇神社と大通寺、さらには河野氏の通の一字が、語りかけています。
5529 目の付け所 今城 03/29 14:37
面白いところに目を付けましたね。大通寺の洗い直しに期待します。
5530 忘却とは忘れ去ることなり maru阿弥 03/29 19:06
そうですね。灯台もと暗しでありました。
河野郷の大通寺ばかりが話題になり、
本家本元の大山祇神社の大通寺を見落としていたとは、情けないかぎりです。
これを扱った文献にも出会ったことがなく、
通一族(河野氏)がいなくなった時点から、
大通寺の意味が忘れ去られ、
ただの、大通寺になってしまったものと思われます。
そして、本家本元にならって全国の大通寺も、本来の意味を忘却したのでしょうか?
5531 次は着眼の立証ですね 今城 03/29 22:48
誰も気が付かなかった点に着眼したのは凄いと思います。
次はこれを立証することですが、易しくはありませんね。
さあ、さあ、お立会い。頑張れ!!
5532 期待しております mino阿弥 03/30 10:06
当方、今月は花粉症でフラフラです。maru阿弥師よろしくお願いします。
先週上京し、ついに美濃林通師と面談致しました。会って驚きましたが小生の親父と見紛うばかりに全体の雰囲気は似ており、同族であることを確信しました。大昔どこかでつながっていたのではないかと思われます。
京都妙心寺塔頭大通院一柳直末開基南化玄興開山・山内一豊の庶子湘南宗家(二世)
智勝院稲葉貞通開基南化玄興の法嗣単伝士印開山・単伝は春日局が帰依
美濃に関わる高僧
仁岫宗寿(妙心寺27世)ー快川紹喜(43世大通智勝国師)ー南化玄興(58世)ー単伝士印(74世)
「美濃国諸旧記」には土岐氏最後の守護土岐頼芸(東春院殿前濃州大守左京大夫文閣宗芸大居士)天正十年十二月四日逝去の折、稲葉一鉄は南化玄興を招き導師とせりと書かれています。
5533 日向の国のことも御忘れなく 遊行笑人 03/30 14:00
皆々様、お揃いですね!・・・この所以は今度大三島参拝の折には、お尋ねして見ましょう。
日向の三島神社の古跡と大通寺跡はmaru阿弥師の仰せの通り真に隣合わせと言うよりは同処也此れぞ真に探索の要かと・・・新年度の探求題材として、合力しましょう!
笑人・・只今・・多用にて、土佐と讃岐と行き通ってますので、しばらく御暇を頂戴します。
5537 大通寺一族の痕跡 maru阿弥 04/02 19:44
mino阿弥様、花粉症でフラフラの中、林一族会談、盛会のよし、お喜び申し上げます。
関市の大通寺は、河野郷大通寺と同年頃には既に存在していますから、
大通寺一族(河野氏・通一族)縁りの方々がすでに美濃には多数存在していたものと
推測されます。
また、遊行様の都城の大通寺もまさしく、大三島の古式を正確に残されていますから
まぎれもなく、大通寺一族の痕跡でありましよう。
宮崎には都農のように、河野氏だらけの町が現存しており、
どちらが、伊予かわからなくなることがあります。
前年 前月 暦 翌月 翌年