■題名
伊予と忠臣蔵
■登録者へのメール
呑舟
■ホームページ
■内容
一見なんの関係もなさそうであるが、(事実関係ないのかもしれない 笑)
忠臣蔵に架空とも実在とも言われる 赤穂浪士討ち入りの際の武器調達した、あの有名な「天野屋利兵衛は男でござる」の天野屋利兵衛は大野家の落人かもしれない。
以前から気にはなっていたのですがあまりにも荒唐無稽すぎるので投稿はためらっていましたがネットの性格上、万民が見てるので書いてみます。意見のある方どんどん書いて!
根拠は「屋代島大野系譜」に大洲の大野直之の弟に大野九郎兵衛直実の子が
「天野屋九兵衛と称し子孫、摂津大阪上平野町ニ住ス」
との記述があり、同じ大阪平野町で「天野屋」が二軒あるとも思えないからです。
大野系図はただ一行記すのみですが、大野一族は慶長年間に離散したのでそれから
100年後の元禄時代は九兵衛の子供の代ですかね。
天野屋利兵衛は寛文1年(1661)生まれで名は直之で元禄7年に天野屋通しの称
「九郎兵衛」を踏襲しています。元禄14年の討ち入りの時も利兵衛ではなく九郎兵衛
です。
未だ仮定の段階ですが、赤穂城明け渡しの際、大石内蔵助と張り合って遁走したと
言われる、一代家老の大野九郎兵衛も大野家の縁者ではないかと想像しています。
ある系譜専門家もそのような指摘をしています。
九郎兵衛は大野家の名乗りで直澄 直周も使用しています。
私の勝手な想像ですが、先に赤穂浅野家になんとか経済官僚として仕官できた
大野九郎兵衛が、大阪で商売がうまくいっていなかった親戚の天野屋九兵衛に
赤穂塩田の利権を与えて助けたのではないでしょうか。
赤穂城明け渡しの時は、家臣の引き締めのため、口裏合わせて大芝居をうって遁走したのではないだろうか。
置き忘れた孫娘を後から内蔵助が届けてくれたのが、やらせっぽい。
代わりに家名断絶してでも内蔵助を助けろと九郎兵衛が天野屋に厳命したとすれば筋が通る。天野屋も倒産の危機から救ってくれたのが、赤穂浅野の塩田利権であるし、元々武士だから金には頓着しなかったのかもしれない。家老も天野屋も大野家らしい直情
的なDNAを引き継いでいるみたいである。
今から裏をとる長い作業が始まりますが、皆さん応援してください。
『不忠者 大野九郎郎兵と義侠の天野屋利兵衛が親戚で大願成就のため、大石内蔵助と
仕組んだ戦略なら 今の忠臣蔵の筋書きは大幅に変更しなくてはならなくなる』
事実ならわくわくしますね。
乞うご期待!
6167 少し進展しました。 呑舟 03/07 21:45
最近上田本大野家譜と讃岐屋本大野家譜を入手しました。
それによると大阪平野町の天野屋を継いだのは直行の子ではなく大野直昌の跡取りの
熊(王)丸となっています。熊王丸は後 直常となります。嫡男ではなく跡取りと書いたのは意味があり、直昌は嫡男忠太夫を廃嫡し、たぶん正妻も離縁し、宇都宮豊綱の
出戻り女 朝子を娶る。完全な政略結婚である。これにより宇都宮家の家督を譲り受け
宇都宮姓を名乗ることも契約している。但しこれは懐妊中の朝子が婚姻後に男子を産む
ことが条件だったらしく直昌の跡は大野家と宇都宮家双方の家を朝子が産む男子が相続
することが決められたらしく大野一族10家の契約連判状を作成している。
果たして大除城において天正11年(1583)正月17日熊王丸が誕生し前述の
ように嫡男が廃嫡されたと思われる。廃嫡された嫡男は後、豊臣秀頼の呼びかけに
応じ大阪の陣 道明寺合戦において討ち死にしています。
熊王丸はと云うと伊予総下城に伴い河野家に従う父直昌・母朝子と竹原へと落去する。
父直昌竹原で天正17年(1589)7月27日逝去すると竹原を引き払い松山天徳寺に寄宿とある寄宿するとある。この時の養父は小倉左衛門尉である。
その後、大野家出入りの大阪天野屋九兵衛が大阪表に連れて行き大阪平川町天野屋を
継承させる。この熊王丸の子か孫が男になった天野屋利兵衛と考えられる。
なら熊王丸の本当の父は誰かといえば朝子の初婚の相手一条内政となっている。
大野直昌は今様で云うと養父にすぎなくなる。
天徳寺を出発する時、和尚は餞別として別本尊の胎中秘蔵の唐絵の布袋一幅を送って
いる。熊王丸は万治3年(1660)4月28日逝去 大阪九条邑 竹林寺に葬るとある。
天野屋利兵衛は四国名家の土佐一条家と伊予宇都宮家の血を受け継いだ男となる。
6176 大阪九条 竹林寺 呑舟 03/09 09:52
ITって便利ですね。
検索すると現存するんですね。今は大阪市西区本田1-9-3
戦災を含めて2度火災にあってますが、創建は1620年代、朝鮮通信使の墓が
あることで現地では知られているみたいですね。ここなら平川町の天野屋から
歩いて20分程度ですね。
こちらも墓や記録は残ってないでしょうね。
義商天野屋利兵衛の祖父の寺のかもしれないと云うことも現住も知らないでしょう。
6185 天野屋利兵衛は(大野)直治か! 呑舟 03/12 09:18
大阪九条 竹林寺に電話してみるとやはり知らなかったとみえて「あの天野屋ゆかりの
寺だとすると当寺にとっては大変なことなので、逆に是非お聞きしたい」と興奮気味で
あった。寺は1624年創建で当時とすれば人口が増え続ける中で新開地に開いた寺で
大野熊王丸(直常)は創建わづか36年後に竹林寺に葬られたことになります。
寺は浄土宗で創建時から同派であったかと確認しようとしたところで来客があり
電話を切らざるを得なかった。
現住は本山からの派遣で東京出身だからいわれはあまり知らないし、寺も焼失を繰り返しており記録もないし寺域ももとは現在の3倍あったが区画整理で取られてしまった
とのこと。
大阪空襲の「焼け地蔵」でも有名な寺なので墓が残っているかどうか。
熊王丸(直常)の戒名である「天徳院殿圭厳常白大居士」の墓が見つかれば葬られた
ことと予州大野家直常が平川町天野屋を継いだことが証明されるのだが。
だれか関心のあるかた探してもらえませんかね。あるとすれば無縁仏となって墓石だけ
を積み上げた山の中に隠れていそうかなと。
前置きが長くなりました。
天野屋の跡を継いだ大野直常(熊王丸)の妻は同族、大除城主大野昌の弟、大洲城主大野直之(直行)の娘、中和門院の女房「備後」の娘となっている。直之没落後、同女は
1585年豊後に立ち退き、1590年入田両庵なるものと結婚している1593年大友義統没落の
時、防州山口を経て京都に移っている。
32歳のとき中和門院の女房として宮中に上がっている。
中和門院慶長17年8月1日中和門院崩御により尼となり(寛永7年7月3日説もあり)万治2年7月18日卒(万治3年説あり)とある。京で逝去したと思われるのだが
大阪下寺町「大蓮寺」に葬られたことになっている。
こちらの寺も現存していて天王寺の近くである。
問い合わすとこちらもご他聞に漏れず戦災で焼けて記録は残ってないと、寺域を探しまわるのは一向に構わないとのことであった。
「備後」の戒名は「見性院秋月榮春大姉」である。
親族「備後」の葬儀の出し「大蓮寺」に葬ったのは平川町天野屋九兵衛(直常)では
ないかと思っている、天野屋からは「大蓮寺」も「竹林寺」も現在でも歩いて20分
程度のところである。
備後の娘との間に直常は七郎兵衛直賢と娘1人をもうけている。直賢の子が九兵衛直治
であり「忠臣蔵」時代の人物となる。
「忠臣蔵」の大石蔵之助の浅野家再興の宮中工作は「備後」の筋系で「直常」の妹
高仁親王の乳母として参内した正智院のの筋ではなかろうか。
ウイキベヂアの天野屋利兵衛の項では直治ではなくなぜか大洲の「直行」と同じで
予州大野家代々の名乗りである「九郎兵衛」となっている。
赤穂潘不忠の家老も「大野九郎兵衛」である。
こちらは「松阪町 討ち入り」後なぜか「備後」「正智院」ゆかりの京都で
大野家の本姓(大伴「伴」)を名乗って余生を送っている。これはHP「ろんがいび」
でも紹介されている。
四国・一条家・宇都宮家・そして大野家の混血「天野屋利兵衛」の探索は続く。
赤穂潘家老大野九郎兵も。
6188 戦国〜江戸の時代には 海遊庵主 03/12 13:05
呑舟師、伊予と難波の天野屋利兵衛との結われも誰も思いもつかない題目・・ご熱心な想いが切々と伝わって参ります。
此れほどまでに縁が重なるものかと!・・是非ともこの家系の御子孫の方が御出ましあれば貴重な表題になるのですが、気長に待つのも楽しからずや!
6193 結構わくわく 呑舟 03/13 00:49
結果として没落河野家や大野家等河野一統で、よき時代を懐かしむ中で、国民にメジャーな話題に四国ゆかりのものが活躍したのだぞと証明できれば、夏の大花火のようで
スカッとするかなと(笑い)
ITNとは面白いもので話題にあげるだけで、検索に引っかかり、同好の士を呼び寄せる
魔術があります。
最初に「伊予と忠臣蔵」を投稿したときはは「天野屋利兵衛」の項の検索順は200位
以下でしたが、昨日は50数位#6185を書いた後は30数位に検索回数があがっています。
この間今日の10時から23時までの「談話室ゆづき」の閲覧回数は160回を超えて
いるのと「天野屋利兵衛」の当ブログの順位アップは関連していると思っています。
何が言いたいのかといいますと同好の士もしくは関係者がそのうち「ゆづき」に現れて
くるでしょう。そのためにキーワードを繰り返し書いています。
待ちましょう・・・・・わくわくしながら
6197 中和門院と高仁親王 呑舟 03/13 14:58
大洲大野系図に「直之の娘、中和門院の女房となり主人没後 尼となる」と
讃岐屋本大野系図は「熊王丸の妹(母宇都宮豊綱女・父直昌)寛永年中 高仁親王
の乳母として昇殿、没後尼になり1669年82歳で逝去」の旨が書かれている。
なにげなく調べてみると大変な状況になっている。
中和門院は後水尾天皇の母(関白太政大臣豊臣秀吉の養女で藤原前子[実父は関白
太政大臣近衛前久]で秀吉の意向で送りこまれている。
苦々しく思っている後陽成天皇は良仁親王は廃して自分に意に沿う天皇を決めようと
したが関が原の合戦で徳川が勝つと豊臣に代わって家康は天皇家に干渉を始める。
1613年江戸幕府は朝廷の統制を目的とした「公家衆法度」「勅許紫衣法度」ついで
「禁中並公家諸法度」を公布して京都所司代」を置いて宮廷を管理下に置いた。
後に外戚の立場を固めようと1620年徳川和子が女御として入内する。
1627年紫衣事件、徳川家光の乳母お福(春日局)がこともあろうに無位無官で朝廷
に参内し天皇家のないがしろにした。
この和子(中宮・東福門院)が生んだ子が高仁親王と第三王子の若宮である。
どちらも徳川の血の入った子である。徳川秀忠は天皇に圧力を加え続け後水尾天皇
は高仁親王への譲位を決意します。この時高仁親王は乳飲み子で一歳、記録によれば
熊王丸(天野屋)の妹がお乳を上げて育てている最中のことである。
果たして徳川の血の入った高仁親王はただちに夭逝する。
2歳未満であった。
後の若宮も早世し徳川の血流の男子はいなくなり女子だけ残される。
このあたりでお気づきであろうが非常にきな臭さを感じる。
おそらく中和門院の女房備後の手引きで天徳丸の妹・正智院が高仁親王の乳母として
昇殿したことは「ある密命」を受けていたものと思われる。
徳川家憎しの朝廷からすればいまや天下人の徳川に抗うことはかなわないが、徳川の
血を断固として入れることを拒否するのが大方針であったのであろう。
高仁親王の一番身近にいて、天皇の意を介し目的を達するために正智院は送りこまれた
のであろう。
わずか1年弱の乳母で尼となり82歳まで永らえることは、天皇家の庇護があったもの
と考える。
この正智院1669年11月9日逝去する。
直常(熊王丸)の子、直賢は正智院と親交があったと思われる。
直常の孫天野屋利兵衛(直治)は直賢の子であり、別の史料によれば天野屋利兵は
(1611年--1733.8.6没)とあり時代は符合する。
徳川家が困るのであれば天皇家は影で赤穂浪士を応援するのは一向に構わない
土壌がここにあり、「忠臣蔵」の宮中工作は成功したとみている。
なぜか天野家は弟三郎兵衛が継ぎ、その次の代で直治の末子、九兵衛直晴に家督を戻して
いる。
弟に譲らざるを得なかったは「赤穂浪士武器調達の件」に原因があるのだろう。
直晴の子、七郎兵衛直棟、その子周蔵までの記述があるから1800年代まで家子孫がいる
とおもわれる。
これはとりも直さず天野屋利兵衛の子孫は現存する可能性が高いことを意味する。
6198 訂正 呑舟 03/13 15:09
1627年紫衣事件、徳川家光の乳母お福(春日局)がこともあろうに無位無官で朝廷
に参内し天皇家のないがしろにした⇒天皇家を・・・
おそらく中和門院の女房備後の手引きで天徳丸の妹・正智院が高仁親王の乳母として
⇒天徳丸の妹は熊王丸・・・
6295 忠臣蔵と伊予のつながり 呑舟 04/04 22:22
「元禄十六年二月四日、松山藩預かりの赤穂義士十名は江戸三田の松山藩邸に於いて、幕命により切腹した。
十士の氏名
○ 大石主税良金 十六歳
○ 堀部安兵衛武庸 三十四歳
○ 中村勘助正辰 四十八歳
○ 不破数右衛門正種 三十四歳
○ 千馬三郎兵衛光忠 五十一歳
○ 木村岡右衛門貞行 四十六歳
○ 岡野金右衛門秀包 二十四歳
○ 菅谷半之丞正利 四十四歳
○ 貝賀弥左衛門友信 五十五歳
○ 大高源吾忠雄 三十二歳
時の松山藩主 松平隠岐守定家は義人たちを武人の鑑として丁重にあつかった。
後にこのことを知った播州赤穂の人々は、赤穂の特産の櫨の苗木を感謝のの紀念として、松山に送り届けてきた。
松山潘ではこれを石手川の堤防とこの堀の堤に植えた。(中略)
ちなみに菅谷半之丞は伊予郡松前の生まれであり、杉野十兵次は興居島の人である。
中村勘助の娘るりは大洲新谷に嫁いできた。こうして考えると大洲潘の名産ろうそくにも関係があるのかもしれない」
このように大洲の人物も赤穂義士の一人となるのであれば、大野九郎兵衛が、赤穂藩家老でもおかしくはない。
というよりも伊予人が九郎兵衛を含めれば伊予人(大洲)が三人も播州赤穂に仕えていたとなれば、単なる偶然ではなく「転職の口利き」が行われたと見るほうが自然なのかもしれない。
中小企業の途中入社みたいなものだから、氏素性はもちろんのこと、実践的なスキルが要求されたのではなかろうか?
海とは関係ない陸の茨城県笠間から移って来た浅野家は財政基盤を米よりも赤穂製塩においたのではなかろうか?製塩の技術者と流通のプロが集められたに違いない。その中に伊予の落人もあったのかもしれない。
この菅谷半之丞正利は直之の別名「菅田」の変名かもしれない、なら大野九郎兵衛と親族の可能性がでてくる。
道筋がおぼろげながら見えかくれする。
尚、出だしの文章は今城さんの庭である「ゆづき城」の堤に「この木の由来」として平成10年に「道後水利組合」が立てた説明文の一部である。
どなたか伊予人「菅谷半之丞正利」と同義士「杉野十兵次」の出自についてご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?
6376 赤穂朗史さんとの応答 呑舟 04/29 09:19
呑舟質問
『初めてメールさせていただきます。
不忠の臣と伝えられる赤穂藩家老 大野九郎兵衛の出自を捜しています。
小生、伊予久万(現久万高原町)の大除城主大野家の足跡を調べています。
大野九郎兵衛は伊予大野家の跡取(家督)の名乗りですので、秀吉の四国平定において下城した後の大野一族の一人が、
親交のあった広島浅野家のつてを使って、赤穂浅野家に仕官できたのではなかろうかと推測していますが、史料がありません。
貴HPによると、赤穂塩田開発の発起人は大野九郎兵衛と書かれていますが出典はなんでしょうか?
私も赤穂塩田開発には瀬戸内海式塩田を知る者が指導したと思っておます。
陸地の笠間から付いてきた家臣では塩田開発のノウハウはないと思いますので、ますます伊予の大野がくさくなります。
ご承知のように入浜式製塩は瀬戸内海ではあちらこちらで昭和になるまで行われていて昭和の後半から流下式に変わり
その後、外塩との価格競争に負けて次々と廃田となりました。
入浜も流下も天日で塩水濃度を高めて最後に釜で煮詰める作業をするとおもうのですが、赤穂塩は当時、燃料の
薪はどこから調達していたでしょうか?相当な量が必要なので、当時製塩していた毛利藩も苦労して確保していました。
伊予大野家下城から100年たって赤穂事件はおきますので赤穂の大野九郎兵衛は3代ぐらい後の人物と思われます。
また、藩札発行者も九郎兵衛と書いてありますが出典はなんでしょうか?
忠臣蔵といえば芝居では天野屋利兵衛はつきものですが、赤穂藩との関係は史料上見出せないと巷間言われてますが
本当でしょうか?
天野屋利兵衛は架空の人物という人がいますが、大阪代官所の宗旨改帳に記録がありますから実在の人物です。
天野屋利兵衛は本名は「大野九郎兵衛直之」でこちらも伊予大野家当主大野直昌の末裔だと私は思っています。
今の段階では赤穂の大野九郎兵衛は、大野直昌の弟、伊予大洲城主大野直之の末裔とみています。
となると、赤穂藩経済官僚大野九郎兵衛は、大阪平野町の豪商「天野屋」と親戚の関係となります。
大阪天野屋が赤穂塩を扱った記録はございませんか?間接的にも?
さんざん儲けさせていただいたのと親族が家老であるなら、武器の調達ほか金銭の援助は命をかけてもすると思われます。
そもそも二人の九郎兵衛は世が世なら城主ですので。
今のところ記録がないらしいですが。
さすれば、不忠の大野家老は不忠ではなく蔵之助と示し合わせて出奔していると思われます。
貴HPによれば4月11日に城内で大評定を行い篭城切腹の大石派が謹慎開城派の大野派を追い出して世論を形成した
ことになっています。しかるに当日夜逃げではなく翌12日夜逃げとなっていますが、これは事実と異なるのではないでしょうか?
夜逃げは後世の捏造で、予定どうり家財を於いて身軽にでていったのではないですかね。蔵之助と示し合わせて。
後世の伝聞では九郎兵衛はあわてふためいて孫娘を置き忘れた、とありますがこれなどは尾ひれの範疇でしょう。
家の隣が城門とはいえ24時間開いている筈もなく当時の混乱期は城内への出入りは厳重であったにちがいない。
そんななかで夜逃げができるとも思えない、現在の大石神社の駐車場の前辺りが屋敷であったなら大石家と目と鼻の先ですよね。
元禄15年11月29日の蔵之助の手紙では差し押さえの大野の財産は本人の願いにより返すとあり、出奔行方不明ではなく
連絡を取り合っていて、不忠の者とも思っていない傍証であり、蔵之助と組んで裏方としての役割を果たしていたのではなかろうかと
思っています。
松阪町討ち入りが失敗したなら逃げくる上野介を上杉藩境で襲う計画を九郎兵衛派がしていたと伝えられるのもあながち
荒唐無稽のことではなかったのではないでしょうか?
二人の大野九郎兵衛が親族同士で赤穂義士別働隊として動いていたと証明されれば、人口に膾炙された「忠臣蔵」
のイメージが変わるとおもうのですが。
いかがなものでしょうか?なにか手がかりはござませんか?』
赤穂朗史さんの返事
『>貴HPによると、赤穂塩田開発の発起人は大野九郎兵衛と書かれていますが出典はな>んでしょうか?
廣山堯道氏の『赤穂塩業史』(赤穂市)の111頁には、「塩田対策─年貢・運上の増徴政策は家老大野九郎兵衛のもとに推進されたが、彼は遂に延宝四年藩札発行に行きついた。…」とあります。
>私も赤穂塩田開発には瀬戸内海式塩田を知る者が指導したと思っておます。
赤穂の近くに姫路があります。姫路の大塩という所から、大量に入浜塩田の技術者を導入しています。
>また、藩札発行者も九郎兵衛と書いてありますが出典はなんでしょうか?
同上の書で指摘しています。
>忠臣蔵といえば芝居では天野屋利兵衛はつきものですが、赤穂藩との関係は史料上
>見出せないと巷間言われてますが
>本当でしょうか?
私の知る限り、史料はありません。
>大阪天野屋が赤穂塩を扱った記録はございませんか?間接的にも?
残念ながら、調査していません。時間に余裕があれば、面白いテーマですので、
研究してみたいです。ご教示をお願いします。
>貴HPによれば4月11日に城内で大評定を行い篭城切腹の大石派が謹慎開城派の大>野派を追い出して世論を形成した
>ことになっています。しかるに当日夜逃げではなく翌12日夜逃げとなっています
>が、これは事実と異なるのではないでしょうか?
原惣右衛門とか岡島八十右衛門の記録では、そのようになっています。真相を知らない者はそう感じたのでしょうか。
>元禄15年11月29日の蔵之助の手紙では差し押さえの大野の財産は本人の願い
>により返すとあり、出奔行方不明ではなく
>連絡を取り合っていて、不忠の者とも思っていない傍証であり、蔵之助と組んで裏
>方としての役割を果たしていたのではなかろうかと
>思っています。
私のホームページでも、大石内蔵助は、討ち入り前に、大野九郎兵衛に財産を返したことを紹介しています。多分、内蔵助と九郎兵衛は、親密な関係にあったと思っています。ただ、芝居の世界では、憎まれ役が必要で、その度合いが大きければ、演出効果は抜群ということも事実です。
>二人の大野九郎兵衛が親族同士で赤穂義士別働隊として動いていたと証明されれば、>人口に膾炙された「忠臣蔵」
>のイメージが変わるとおもうのですが。
>いかがなものでしょうか?なにか手がかりはござませんか?
残念ながら、私は、現在、そのような史料を知りません。
ただ、大野九郎兵衛の墓と言われる物があちこちに存在します。時間があれば、この問題にも取り組んでみたいと思っています。
今後ともよろしくお願いします。
赤穂朗史(バーチャル名)』
呑舟再メール
『早速のお返事ありがとうございます。
大野九郎兵衛が巷間伝えられるように、大石等から不倶戴天の敵ではなさそうなことがわかり推論を発展させることができます。
もしお分かりならば大野九郎兵衛の生没年と父親の名前は分かりませんか?
またいつから赤穂藩家老もしくは赤穂藩に出仕していたかわかりませんか?
また赤穂塩流通に欠かせない港は赤穂のどこにありましたでしょうか?
それは何石船まで停泊できる港でしたでしょうか?
それと大野九郎兵衛の墓と伝えられるのは何処と何処でしょうか?
大野家は本姓は大伴姓を自負していますので「伴姓」を名乗った京都の墓が近いのかなと推測してますがわかりません。
私は「大阪 天野屋家」の墓がある大阪地区ではないかなと捜しています。
さて順序は逆になりますが、予州大野家と天野屋と赤穂藩家老大野を結びつけたのは、たまたま「予州大野家系図」群の
中で「屋代島(現周防大島町)大野系譜」に「大野直之の弟、大野九郎兵衛直実の子、天野屋九兵衛と称し、摂津大阪
上平野町に住す」との記述があり、また別に「上田本大野系譜」や「讃岐屋本大野系譜」は直之の子ではなく、大野直昌の
子、熊王丸が父が仕えていた予州河野家とともに秀吉により没落し小早川の領地芸州竹原で没した後、松山天徳寺に
寄宿し後、大野家出入りの大阪「天野屋九兵衛」に連れられ上阪し後、跡を継ぐとあります。
この熊王丸は万冶三年(1660)4月28日、大阪九条邑松林寺に葬るとあります(この寺は福島区に現存します)
浅野と大野の関係は秀吉に最後まで歯向かった予州河野家、村上水軍(野島・因島家)来島は別、河野家筆頭家老
大野九郎兵衛直昌(なおしげ)及びその甥で能島村上武吉の娘婿、大野直政らが秀吉が天下掌握の後、切腹断絶の
意向のとき、河野家と村上家のグループ、毛利家・小早川家の斡旋で当時の秀吉の側近、浅野弥兵長政にとりなし
を頼んだときからと思われます。
これより先天正10年、織田信長の命を受けた秀吉が四国中国攻略のため河野家・毛利家双方にかかわりのある
村上水軍の内、来島家、能島家の代表を姫路の浅野長政邸に呼び味方への工作を行ったともあります。
この時の工作で秀吉に寝返った来島は後、大分の大名となり明治を向かえ、寝返らなかった能島村上は毛利家と
運命をともにして、瀬戸内最大の海賊衆の権限は秀吉の「海賊禁止令」により消滅し、毛利家御船手組として細々と
明治を向かえます。
この姫路浅野邸会談の野島村上代表が大野兵庫直政となります。直政がこの時、土産にもらった槍等は明治の中ごろ
まで屋代島大野家にはあったといわれています。(子孫に聞きましたが、「今はどこにあるのか?わからない」とのこと)
もし分かるのであれば、秀吉が姫路城にいたときの浅野長政邸は今のどこにあったでしょうか?
今のジャスコ姫路リバーシティ店の前の赤穂に繋がる道の沿線あたりではないかなと推測しています。
伊予と忠臣蔵については「談話室ゆづき」に同名でスレッドを立てていますから興味があれば一度ネット検索してください。
できれば返事はそちらに追記して頂ければ同好の士の目に触れて話が深まると思うのですが。』
6759 進みませんな・・・ 呑舟 07/12 11:24
なんとか、大坂商業大学の協力で天野屋利平宅は突き止めました。
なんのことはない、今の大阪城の大手門の前でした。
当時の地図をみると中州ばかりで住める土地なんか殆どない。
河野・村上水軍が大坂本願寺に信長に対抗して兵糧を運び込みますが、殆ど今の天守閣(本願寺に盛土をして大坂城は築かれた)近くまで船を寄せることができたのでしょう。
伊予出身の赤穂浪士「菅谷半之丞正利」と同義士「杉野十兵次」の出自を捜してますが
この看板を立ててある湯築城の今城氏から音沙汰ないのは分からないのか案内板が撤去されたかでしょうかね。
赤穂藩への仕官ルートといきさつが分かれば「赤穂藩家老 大野九郎兵衛」ルートも
手がかりがつかめるかと思ったのですが・・・・・
6761 「菅谷半之丞正利」と「杉野十兵次」 今城 07/12 22:54
> この看板を立ててある湯築城の今城氏から音沙汰ないのは
つい今し方見たばかりなので。
> 伊予出身の赤穂浪士の出自を 捜してますが
私宛のお尋ねとは思いもしませんでした。二人のことは全く知りません。
なお、この説明版は湯築城外にあり、湯築城の堤ではありません。外堀と
その南を流れる川を分ける土手の上にあります。その川は流量が激減し、今
は小さな暗渠になっていますので、知らないと判らないでしょう。
6762 そうですか・・・ 呑舟 07/13 07:51
なると、市か県かでないと分からないのかもしれませんね。
赤穂義士に伊予人が二人も参加していたのは地元では話題だったのかと思いましたが。
6895 松山市教育委員会によると 呑舟 08/22 10:26
教育委員会文化財課に問い合わせをしていたところ親切にも関係資料を添えて菅谷半之丞について連絡を頂きました。
出典は「垂憲録拾遺」らしく
菅谷半之丞 名は正利 四十四歳にて没
伊予郡某村出身で江戸表に出て浅野家に仕官(徒士)のち赤穂の代官(100石)となる。
(注釈)
按ずるに伊予郡北伊予村大溝字原田には菅谷半之丞の裔と名乗るものあり、
また「親類書」によれば半之丞の祖父の代より赤穂に仕えたる旨明記せり。
「親類書」は久松家所蔵の「赤穂御預人始末」にあるから信頼性は高いのであるが
同書は”疑わしい”と景浦直孝氏は伝聞部分に疑問符をつけておられる。
まだまだ史料がたりない・・・・
6896 こじんまりとした墓 maru阿弥 08/22 11:21
菅谷半之丞の墓なら、松前に残ってますね。
こじんまりとした墓でした。
近くに、樹齢400年の見事な藤つるがありますし、
正木城が松山へ移り、残った石垣を積み上げた庚申堂がありました。
昔の石組み、1600年代のは崩れていないのに
新しい石組み、1800年代のは、崩れているのです。
職人の腕も違うようですね。
6897 松前ですか 呑舟 08/22 16:42
関が原の合戦の最中、豊臣秀頼の城明け渡し命令書をもって村上元吉らと竹原から海路乗り込んだ屋代島大野家初代、大野直政が戦ったところです。佃にだまされ前祝いの最中に襲われ、大将元吉を失い、当人も頬に槍傷を受け死ぬまで痕が残ったとされる。河野家再興の夢が破れた場所でもありますね。
西軍関が原に負けるの報が届きほうほうの体で竹原に逃げ帰ります。
これより本格的な「河野崩れ」が始まります。
大野直政、年老いた村上武吉とともに遺児、元武(五歳)の後見し屋代島和田にて
永らえることとなる。
不思議なえにしですね。因縁の場所とは。
石組みは江戸以降は下手になりますね。外面の石は大きく楔のように奥に深く入り
かつ重心を真下にかかるようにし、石垣の面を反らせていき且つ、内部のグリ石をできるだけ厚くすろのが丈夫にするこつのようですが、崩れている石垣は例外なくグリ石が少ないか隙間が多いですね、原則さえ守れば「野面積み」でも強いのですが。
原因は手抜きか予算がなかったからでしょうね。
石垣積みは石が豊富な西国に多く、東日本では極端に少なくなる。青森の弘前城は桜の名所で有名ですが、ほとんど土塁で石垣は一部だけですね、仙台青葉城も、会津若松城も同様ですね。
徳川御三家の水戸も石垣で築きたかったが石材が近くになく困っていたのを讃岐松平家が本家に瀬戸内海の良質な花崗岩を船で送ったが、嵐にあってすべて沈没し、それ以来
水戸城は石垣作りを諦めたとか。
いまやかっての領内の笠間付近は良質な石の産地なのですが、石切職人が居なかったのかな。
屋代島の石工の腕は最高水準だったらしく、明治初期にハワイ移民として多くの石工が
ハワイの各島に出稼ぎに行きますが、彼らは当時のサトウキビ畑の灌漑用水路を緻密な石組みで作り上げ白人の主人たちを驚かせた。今もハワイのあちこちで現役の水路として使われています。
これらの石工もまた伊予からの移住者である。
7676 「難波雀」によると 呑舟 02/22 10:17
赤穂事件直前の大坂の「タウンページ」ともいうべき案内書「難波雀」によれば
天野屋利兵衛は天満の惣年寄を勤めており、備前岡山藩ほか1件、両2大名家の「倉本」及び、熊本細川藩の名代も兼ねている。
大坂天満の天野屋利兵衛は架空の人物とする赤穂浪士研究者たちには説を撤回してもらわねばならない。
「いや、天野屋ではなく天川屋である」主張する向きもあるが、同書に天川屋は別に出てくるので実在の人物であったのであろうが、住所が違う。
同書に赤穂塩の問屋が3軒書かれているが、残念ながら天野屋ではない。ただ天野屋が住んでた天満橋にお店(たな)を構えているから知り合いではあったのであろう。
中和門院備後を葬ったとされる、大坂下寺町大蓮寺も同書に名所として出てくるので
有名な寺の一つであったのであろう。
ただ、前述の九条の竹林寺は当時は川向こうだったので少し大蓮寺よりは時間がかかる。
「義士余談」(三十三)によると、大石義雄の母松壽院は備前岡山池田公の国家老、池田石見守の娘で義雄は幼くして父、権内に死別してから、15歳で大石家を継ぐまで
池田石見守の手許で育った事実により、同じ、岡山藩大坂蔵本の天野屋利兵衛とは
知己の仲であり、なにかとあとあとまで世話をしていたと論じている。
ならば、天野屋と大石は赤穂塩が取持つ縁、以前の話となる。
まだ、赤穂藩国家老、大野九郎兵衛との接点がつかめない。
ほかに、江戸時代の「義商 天野屋利兵衛」を描いた絵に着ている着物に「大野家」の木瓜紋が描かれているのは、偶然なのか、伝承があったのか? 不思議である。
つづく・・・
7677 訂正 呑舟 02/22 10:32
倉本は蔵本の間違い
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